運を変える如意宝珠の神秘

 如意宝珠とは、一体、何でしょうか? 

密教大辞典』によりますと、如意宝珠は仏舎利のことだとしるされています。

“梵にシンタマニという。シンタは思惟、マニは宝珠なり。宝珠より種々の物を出すこと意の如くなるをもって名づく。

 略して如意珠・宝珠摩尼・摩尼珠といい、能作性珠とも名づく。古来、竜王あるいは摩羯魚の脳中等より出づといい或いは仏舎利変じて宝珠となるという”

 シンタは思惟、マニは宝珠と解説されているところから、如意輪観音のお姿を連想します。

 密教仏舎利信仰を取り入れていることが窺えます。

 弘法大師空海の御遺告に、如意宝珠の製造法が記されております。それによりますと、仏舎利三十二粒を、純金と数種の香木をもって練って玉とするとあります。

 密教では、仏舎利そのものをもって如意宝珠とし、これを本尊として法を修するのが、最極秘伝とされている「如意宝珠法」です。

 では、意の如く何でも願いがかなう宝の珠だといわれるのは、どういうわけでしょうか。

 万徳円満の釈迦如来と入我我入して、人々の利益になるように働くところに意味があるように思います。

 阿含宗開祖・桐山管長猊下が20代の頃に、信仰に目を開かれたきっかけに如意宝珠を読み解く鍵があると私は考えています。

 まだ二十代でしたが、そのころのわたくしは病気を患って、やりたいと思う仕事もできず、病気が回復しても事業がうまくいかずに、日々、悩み苦しんでいました。友人たちはどんどん出世し、自分だけが取り残されていく中で、

「才能のある俺が、どうして世の中に出られないのだ。あいつだって、こいつだって、俺よりは決して頭はよくない。ああいう連中が世の中にどんどん出ていくのに、俺がうまくいかずに貧乏をするのはどういうわけだ。世の中というものは、本当に目がない奴らばかりそろっている」

 と考えて、いつも不平不満ばかり言っていたのです。

 そのような時です、白隠禅師の「施行歌」を読んだのは。

「今生[こんじょう]富貴[ふうき]する人は、前世[ぜんせ]に蒔[まき]をく種[たね]がある

 今生[こんじょう][ほどこ]しせぬ人は 未来はきわめて[ひん]なるぞ

 利口[りこう]で富貴[ふうき]がなるならば 鈍[どん]なる人はみな貧[ひん]

 利口で貧乏するを見よ

 此世は前世の種次第 未来は此世のたね次第・・・」

 頭をガツンと殴られたような気がしました。

 なるほど確かに、わたくしは自分が利口で、世の中の人はすべて愚かに見えていましたが、愚かだと思っている連中がどんどん世の中に出ていって、利口だと思っている自分はうだつが上がらない。運が悪い。まさに「利口で貧乏する」だったのです。

「お前がチャンスに恵まれない理由がわかるか?

 それは徳がないからだ。人が成功をつかむには才能だけではだめだ。徳が必要なのだ。徳がなければどれくらい才能にあふれていても、成功をつかむことはできない。

 では、徳を得るにはどうすればよいのか?

 布施をせよ。

 布施をすれば徳はいくらでも出てくるぞ」

 まるで、白隠禅師が語りかけてくるようでした。

 『法華経』「方便品[ほうべんぼん]」には、

「薄徳[はくとく]少福[しょうふく]の人として衆苦[しゅうく]に逼迫[ひっぱく]せられ」

とあります。

 薄徳少福(徳が薄くて福が少ない)だから衆苦に逼迫するのです。衆苦とは、たくさんの苦しみです。逼も迫も「せまる」ですから、逼迫するとは、「差し迫って、汲々たる目に遭う」という意味になります。

 わたくしは悪因縁に苦しみ、その悪因縁を切るために仏道の門をくぐったわけですが、まず最初に学んだのは『法華経』でした。この経文の一節が、深刻な言葉としてわたくしの頭に焼きついたのです。

「おれほど才能のある人間が、どうして世に出られないんだ。世の中は不公平だ。おれは運が悪い」

と思っていたわたくしには、たいへん応えました。

「あの人は運がよい」

「あの人は運が悪い」

と言いますが、なぜ一方は運がよくて、もう一方は運が悪いのか。

 当時、わたくしは、自分の不運の原因を突き詰めて考えました。

   徳が薄い  福が少ない  運が悪い

   徳が厚い  福が多い   運がよい

 運が悪くて逼迫するのは福が少ないからで、福が少ないのは徳が薄いからです。一番の根本は徳です。仏さまに徳を積めば福は多くなり、運もよくなる。なにごともとんとん拍子で進むようになります。もちろん、努力は必要ですが、徳があると必ず努力が報われる。

 ここ数年のわたくしの歩みが、積徳によって運がよくなることを証明しています。

 サンフランシスコ大学理事に就任して以来、国立モンゴル大学名誉博士の学位授与、中国中山大学名誉教授、中国唯一の仏教大学である国立仏学院の名誉教授、北京大学の名誉教授に就任しました。

 学歴のないわたくしが、中国の最高学府である北京大学の名誉教授に招聘されたわけです。

 これは運がよいというよりほかにありません。運が味方しなかったならば、とてもなれません。

 そして、この運は仏さまに対して一生懸命に積んだ徳から生じたのです。わたくしはひたすら徳を積んできました。

 しかし、わたくしにしても、本当に運が良くなったのは、ここ十年です。それまでは苦労の連続でした。苦労を乗り越えてこそ、運はよくなるのです。わたくしの言う苦労とは、仏さまにひたすらお仕えするものです。それが一番の徳になる。自分のためになるのです。ですから、わたくしは、少しも苦労を厭いませんでした。

 不徳はいわば借金です。まずそれを返してから、自分の貯金に移ることができる。人生を振り返ってごらんなさい。これまでどれだけ不徳を積み、人に迷惑をかけてきたかを。

 人間は自分がやってあげたことは覚えていても、人に尽くしてもらったことは忘れてしまう、自分本位な動物です。親、兄弟、友人、その他の人たちに対して、自分はどれだけお世話になり、迷惑をかけているかを考えてごらんなさい。世話と迷惑のかけどおしだと気づくはずです。それらはみな不徳になるのです。わたしたちは普通に生活していても、不徳を積み、不徳を背負っています。

 ちょっとやそっとの供養では、簡単には帳消しになりません。

 供養は仏さまのためにするのではない。仏さまのため、という気持ちで行うものですが、最終的には自分のためなのです。自分のために徳の貯金をする。徳を積むことによって、徳の貯金が増えて、それが福となって自分の身に返ってくる。

 わたくしの近年の幸運がその実証です。わたくしは供養によって運がよくなることを身を以て証明している。不運に泣いていた身が、仏さまへの供養によって徳を積み、幸運を得た。

 もちろん、運のチャンスが来ても、それを生かすのは努力です。運がよくなって、チャンスが来る。そのチャンスをつかまえるのも運ですが、そのチャンスを生かすのは努力なのです。

 しかし、まず、運が来なければどうにもならない。

「薄徳少福の人として衆苦に逼迫せられ」は真理ですから、よく覚えておいてください。

 運を良くする福徳が授けられるから、「如意宝珠」と表現されているのだと思います。

 その「如意宝珠」を持って一遇を照らし、衆苦の逼迫から解脱していきます。