徳を積むための祈り

神はあなたの口にあり、あなたの心にあるから、あなたは神の道を行うことができる

 人は真実な聖なる人からトーラーの教訓(レッスン)を聞いたならば、それを祈りにすることである。レッスンにおいてあらゆることをじっくり考え、そしてそれを達成するにはいかに遠く及ばないかを神に語るべきである。そしてレッスンにおいてあらゆることを達成するのを助けてくれるように神に懇願するのがよい。

 もし人が知性と真実の願望をもっているならば、神は真実の道に彼を導くであろう。そして、人は自分の目標にどのようにして達するかを理解するだろう。・・・

 神との会話という概念は、極めて高度な霊的レベルに向かっている。・・・

 『祈りと嘆願』を通してする以外に、永遠なる方に至る道はないのである。・・・

 人は、自分がこの(永遠なる神に至る)道からほど遠いと感じるかもしれない。しかし、そうではない。

「それはあなたに、はなはだ近くにあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる」(申命記30・14)

『ラビ・ナフマンの瞑想のすすめ』より

三密加持

 これは、まさしく仏教で説かれる密教の三密加持の行ではないでしょうか。

 三密とは、身、口、意の三つの「仏のはたらき」です。

 身とは、私たちのこの身体、つまり手足の働きです。

 口とは、言語の働きで、意とは意識の働きです。

 意識によって物事の判断をし、言語によって口で意識を表示し、身体によって行動している、その三つの働きを真に生かすことが、三密加持の意義です。

 ところが、私のような凡夫は、その三つの働きを真に生かすことができず、迷い苦しみます。凡夫の身口意の働きは、「三密」ではなく「三業」と呼ばれ、仏の身口意の働きと違いがあることを表しています。

懺悔文

我れ昔より造るところの悪業は、みな無始よりの貪瞋痴による。身語意の所生による一切を我、今、皆、懺悔し奉る

 凡夫の三業によって、仏から遠ざかっているこの身口意の三つの働きを、仏の働きにひきもどすことが、三密加持の行です。三業が三密になっていく道です。

 では、仏教徒は、仏にどのように嘆願していったらいいのでしょうか?

「おまえ、苦しいだろう。」

「はい、苦しいです。」

「なぜ、苦しいか、わかるか?」

「いいえ、わかりません。」

「苦しみの原因、条件を集めているからだ。」

「どうすればいいのでしょうか?」

「その苦しみの原因、条件を滅していけばいいのだ。」

「どのように滅したらいいでしょうか?」

「仏に成る道を歩みなさい。」

 苦しみの原因、条件を滅することが仏教徒の嘆願すべきことだと思います。

「因縁転換のために徳を積ませてください!」

それが本当に正しい仏さまへの祈り方である。

阿含宗開祖金言

 仏さまを拝むだけで因縁が転換するということはあり得ません。

 だからといって、仏さまを拝んだってなんにもならない、ということでもありません。

 しかし、因縁を転換するためには、因縁の元となしている不徳を消し去る必要があります。その不徳を消し去るには、消し去るだけの徳を積むしかありません。

 ところが、悪因縁だらけの身では、徳を積むどころか、不徳を積まないようにすることさえも、ままなりません。

 だからこそ、「因縁を転換できるだけの徳を積ませてください」と仏さまのご加護を祈ります。

 懴悔、反省、感謝の祈りです。