心をひとつにする

 以前、「阿含の星まつり」に参拝された菅沼晃元東洋大学学長は、次のように語りました。

「奇蹟とは特別なことが起きることではない。人間は一人では何もできない。だから心を一つにすることが大きな意味を持つ。人間の最も純粋な行為である祈りにより、個と全体が一体となる。それゆえに祈りの行為そのものが奇蹟なのです。」

 祈りの火を中心に人と人が、神と人が、仏と人が渾然一体となって、一つのエネルギーと化し、互いの次元を超えて一つになります。

 人が己の内にある真の祈りに目覚め、ともに手を合わせるとき、奇蹟は顕現します。

霊(聖)性の確立

 それを、端的にあらわしたのが、「奇蹟」の実現である。

 仏教語辞典(中村元編著)にこうある。

【神変】仏・菩薩が衆生の教化のため、超人間的な力によって種々のすがたや動作をあらわすことをいう。〝神通〟におなじ。奇蹟、あるいは奇蹟を行うこと。

【奇瑞】古代インドでは、宗教的に高い境地に達した修行者は、しばしば超自然的能力を現したという。仏教では、これを六通・三明とよび、これらの能力は、禅定(Jhana、ジャーナ)とよばれる精神統一の副作用として得られるものと考えられていた。また、神通は、「信仰の厚い、立派な男によって、奮闘の持続によって、不抜の意力によって、人間の力によって、人間の精進・人間の努力・人間の忍耐によって得られるべきもの」と経典に説かれている。そういう心構えをもった者が、努力を重ねていくとき、その人間自身でも思いがけないほどの力を現すことがある。

 仏教には、奇蹟という言葉がなく、神変、奇瑞という言葉が、これに代わるのだが、宗教で最も重きを置くものが、この奇蹟である。奇蹟なき宗教は、たんなる倫理・道徳であって、げんみつには宗教といえないものだからである。

 キリスト教なども、奇蹟によって成り立つ宗教である。聖母とされるマリアの受胎、キリストの復活などはさておき、ローマ法王庁内には、「福者」「聖人」とよぶ尊称がある。福者というのは、キリストの信仰のために受難したり、殉教したり、生前に特別の聖性を示し、死後に奇蹟をもたらした聖職者にさずけられる。

 さらにそうした福者の中から、ふつう長い年月をかけて調査をおこない厳選されるのが「聖人」である。聖人に列せられるためには、その死亡した肉体、本人が所有していたものから、三回以上、奇蹟が起こらなければならないとされる。

 キリスト教が奇蹟を最重要視することは当然のことであって、それはその宗教が、聖性・霊性を保持する証しだからである。

「巧言令色鮮シ仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」という通り、美辞麗句の限りを尽くして教えを説いても、それを実証する力を示さぬ限り、所詮、それは空論に過ぎない。

 週間『図書新聞』1997年3月22日号にお寄せになられた阿含宗開祖・桐山靖雄管長猊下の一文より抜粋

 2月11日、「阿含の星まつり」で、それを学びます。

 能登半島地震で被災された方々の復興を祈ります。

阿含の星まつり