自らの殻を破るには

母鳥と三羽のヒナ

 鳥の巣が大嵐に見舞われ、巣もろとも三羽のヒナも地上に落下する危険が迫ってきた。

 母鳥は海を渡って安全な岸にヒナを避難させようと考えた。

 しかし、嵐の中、一度に三羽のヒナを運べない。母鳥は一話ずつ運ぶことにした。

 まず、一羽のヒナを掴んで大嵐の中、飛び立つ。

 海を渡っている途中、母鳥はヒナに尋ねた。

「子どもよ、お母さんは命がけでお前を助けようとしているが、お前はその代わりに何をしてくれるのかい?」

「お母さん、こんな大嵐の中でそんなことを考えている余裕はありません。とにかく私を安全なところに運んでください。」

 その答えを聞いた母鳥はそのヒナをパッと海に落としてしまった。

 母鳥は巣に戻ると、次のヒナを掴んで安全な対岸へ飛び立った。

 そして、また、母鳥は同じことを聞いた。

 すると、つぎのヒナはこう答えた。

「お母さん、まず私を安全なところに運んでください。そうすれば必ず私は毎日、食べものを運んで恩返しをします。」

 それを聞いた母鳥は、そのヒナも海に落としてしまった。

 母鳥は再び巣に戻ると最後のヒナを掴んで安全な対岸へ飛び立った。

 風雨の舞う海上を飛びながら、母鳥は同じことを聞いた。

 すると、三番目のヒナは、こう答えた。

「お母さん、私はお母さんがしてくれたことを必ず私の子どもにもするつもりです。」

 これを聞いた母鳥は、このヒナを安全な対岸へ無事に送り届けた。

 とても残酷に感じますが、それぐらい危機や試練を乗り越え、生き延びるためにユダヤ人は、親から子へユダヤ教を受け継ぐことをとても重要だと考えているようです。だからこそ、怖さとともに子どもたちの心にしっかり残すような説話になったのでしょうか。

 いつも読誦する阿含経「応説経」の釈尊のお言葉も、よくよく考えてみれば、このタルムードの「母鳥と三羽のヒナ」と同じ残酷さの響きがあります。

 たとえば鶏が卵を産みすぎて、親鶏が随時に温めたり、風を送って冷やしたりする、というような世話が十分にできなかった卵があれば、その世話が十分に行き届かなかった卵の中のヒナは孵化(ふか)をしようと、くちばしや爪で卵の殻を内側からつついたとしても、そのヒナは自力で殻を破って孵化することができません。

 なぜでしょうか?

 親鶏が随時に卵を温めたり、風を送って冷やしたりするというような世話が、十分にできなかったからです。

 それと同じように、仏道修行者がさまざまな修行に励んだとしても、仏道修行は成就しませんし、漏尽解脱は得られません。

阿含経『応説経』より

 徳なくして行を進めることはできない、と言われますが、それは如来の加護なくして進めることはできないということだと思います。