阿弥陀如来、能登半島へ

法蔵菩薩

 『大無量寿経』に登場する釈尊は、阿弥陀如来について、およそ次のように説法しています。

「はるか昔、世自在王仏という仏がおられた。一人の国王が、仏の説法を聞き、国を捨て、王位を棄てて、世自在王仏の弟子となった。名を法蔵(ほうぞう)という。

 この法蔵沙門が世自在王仏に向かって申し上げた。

『自分は、この世においていかなる難行苦行にもめげず、必ず正覚*1をひらき、仏となって、生きとし生ける者すべての生死の本を取り除きたいと思います。そのために私は次のような願を立てて、必ずこれを達成いたします。私は必ずその教えの通り修行し、願を成就いたします。』

 そのように誓って、四十八の願いをたてた。」

 親鸞聖人は、この四十八の願いの中で、ことに第十八願を「弥陀(みだ)の本願(ほんがん)」といって、非常に重んじられたといわれています。

〝四十八いづれにおろそかなけれども十七、八は弥陀の振袖〟

 その「弥陀の本願」とは、

「たとえ、私が仏となることになっても、十方の衆生が、心から我が国(極楽浄土)に生まれたいと欲して、生涯に十度でも念仏をとなえるならば、かならず往生成仏をかなえさせよう。もしも往生成仏できないならば、私は正覚をとらず、仏にならない。ぜったいに私は成仏しない。ただし五逆*2と、正しい仏の教えを誹謗するものは除く。」

というものです。

 つまり、「この世のすべての衆生が、念仏によって死後、成仏ができないならば、自分は仏になることになったとしても、決して仏にはなりません。いつまで経っても、沙門法蔵のままでいます。」という約束です。

 『大無量寿経』の中に登場する釈尊は、この法蔵沙門の約束を阿難尊者をはじめ、一万二千人の聖者たちに紹介し、法蔵沙門がうちたてようとする仏国土、極楽について、そのすばらしさを説明されます。さらに、その仏国土の主である無量寿仏(阿弥陀如来)の威容と大功徳を讃嘆します。

 ここで、阿難尊者は、聞く者のために、一番、関心のあることを釈尊におたずねします。

「世尊よ、いったい、その偉大なる法蔵沙門は、いま、現在、どうしておられますか?」

『大無量寿経』に登場する釈尊は、次のように応えます。 

「十方の一切衆生が成仏できない限り、自分はぜったいに成仏しないと約束していた法蔵菩薩は、すでに十劫というはるか昔に、無量寿仏・阿弥陀如来という仏に成っている。」

 釈尊のこの証言から、一切衆生がことごとく成仏せぬ限り成仏しないと誓っていた法蔵菩薩が成仏したのだから、一切衆生はことごとく成仏したはずである、という論理になります。法蔵菩薩が、阿弥陀如来となった瞬間、一切衆生、すべて成仏してしまったのだから、一切衆生の一人であるあなたも、これにより成仏は確定してしまっているという論理です。

 煩悩具足(ぼんのうぐそく)、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)のあなたが成仏したのを思えば、阿弥陀如来大慈悲に、おのずから報恩感謝の念仏が、心の底から沸き起こってくるのでないか、というのが、浄土真宗の究極の教義です。釈迦牟尼仏阿弥陀仏の、この二仏のおことばに身も心もゆだねて、私(わたくし)の計らいを一切、はさまず、念仏三昧に暮らしてゆくことが、そのまま、浄土に生きる菩薩の姿ではないか、という究極の信仰のありさまがそこにあります。他力本願の醍醐味だと思います。

 ちなみに、「他力本願」は、自分の力を使わずに、人任せにする、他人をあてにする、という無責任な意味で使われることがありますが、本来は、全く違う意味です。

 阿弥陀如来の本願力に頼って仏に成るということです。

 信仰の結果として、自分のほうで、とやかく計らいをしなくても、おのずから無為自然に目に見えない力に動かされて、行くべきところへいくことができる、という思いは、日常の中でどんなに苦しい状況にあっても、積極的な意味を与えてくださるでしょう。

〝他力と自力〟

 ただ、しかし、どうしてもひっかかるところは、本当に歴史上の釈尊阿弥陀如来について証言したのか、阿弥陀経を作成した名もなき法師たちの頭の中で想像されたものではないか、という点が残ります。本当に求道していくならば、身も心もゆだねる信仰の対象(本尊)に堪えられるかどうか、解決する教義が必要ではないかと考えます。

 概念上や理論上の仏さまは、自分が信じることによってのみ存在するだけです。信じなかったら消えてしまいます。その人の心の中に存在するだけの仏さまは、その人の心理作用によって力が出ることになり、皮肉にも「自力」の宗教になるのではないでしょうか。

 密教的に表現すると、加持力*3の持だけで、加持の加が必要になってくると思います。客観的に存在する仏さまは、ゴータマ・ブッタというお方で、仏教嫌いの人であっても、その存在は認めざるを得ません。真正仏舎利依代として、今もなお、たくさんの眷属、神霊、聖霊が付き従えて、仏陀の道にお導きくださるのです。

 その根本実在の仏さまを通じて、阿弥陀如来を礼拝すれば、それは「他力」の仏さまになるのであろう、と考えるのです。 

 10月22日、石川県能登半島で行われる能登大柴燈護摩供に、阿含宗で奉安されている阿弥陀如来さまが集結します。生きている者だけではなく、亡くなった者も成仏するように、その救済力が発揮され、日本海鎮護、アジア安穏を祈念いたします。

*1:仏のさとり

*2:1.父を殺すこと。2.母を殺すこと。3.聖者である阿羅漢を殺すこと。4.仏身を傷つけ出血させること。5.教団の和合一致を破ること。

*3:加持力の『加』とは、仏さまのお力が自分に加わること。加わったお力を持続することを『持』という。『加』は仏さまから加わる他力であり、『持』は自力となる。加と持がそろって、人間の力を超えた仏の力となる。