報告がないからといって、何もないと言えるだろうか。

前回のつづきを続けたいと思います。

 霊魂も来世も信じないパーヤーシ王は、その論拠として、沙門の言うとおりだったら、地獄に再生するはずの人間から、死後、誰も地獄について報告をしてきた者はいないということを挙げました。

 それに対して仏弟子の沙門クマーラ・カッサパは、

「王族のお方よ、ここに家臣が盗賊を捕えて、『ご主人様、この盗賊にどのような罰を与えたらよいかお指図ください』といったとしよう。すると、あなたは『この者をじょうぶな縄で後ろ手に固く縛り上げ、小太鼓を打ち鳴らしてはやしながら引き回し、処刑場で首をはねよ』と命じる。すると家臣たちは『かしこまりました』といって、命じられたとおりに処刑場につれていって座らせたとする。かの盗賊は『お役人さま、わたしの故郷には、友人、親族がおります。彼らに会って戻ってくるまでは処刑をお待ちください』と哀願して、その許可を刑吏たちから得ることができるだろうか。あるいは首をはねられるだろうか。」

「いいえ、尊きカッサパよ、かの盗賊の哀願は許してくれないだろう。かの哀願者の首は、はねられてしまうだろう。」

「王族のお方よ、盗賊といえども人間である。その人間が同じ人間である刑吏たちに哀願しても許可を得られない。ましては、あなたの亡くなった知り合いが地獄に再生して、『地獄の獄卒たちよ、パーヤーシ王のもとに行き、来世は存在し、善悪の行いによってその報いを受けるのだ、ということを報告して戻ってくるまで待ってください』という哀願を地獄の獄卒たちが許してくれるだろうか。この論拠によって『来世は存在し、生まれ変わりはあり、善悪の行いによって、その報いを受ける』ということを信ずるべきである。」

「尊きカッサパが、いかにおっしゃろうとも、わたしは『来世はなく、生まれ変わりもなく、善悪の行いによってその報いを受けることはない』と思う。」

 生前に、地獄に再生したら自分に報告するように約束しても、死後、誰も報告に来た者はいないから、地獄なんてない、という論拠に対して、報告がないからといって、地獄がない、来世がない、ということにはならないだろう、という論です。しかし、それだけでは、パーヤーシ王は納得できませんでした。

「尊きカッサパよ、いまかりに、わたしの知り合いで善行をしていた者がいたとしよう。他日、このものたちが病気にかかって、もはや、かれらは回復する見込みがないと知ったとき、わたしは彼らのもとに行き、『沙門やバラモンたちのなかには、善行をしてきた者は、死後、善いところ、天界に再生するのだという教説を信じるものたちがいる。ところで、あなたは、実に、善行をしてきたから、もしも、その沙門やバラモンが真実を語っているとすれば、あなたは、死後、善いところ、天界に再生するはずである。もし、そうなったら、すぐにわたしのところへ来て、報告せよ。あなたは、平素から信頼している者だから、あなたの体験は、私自身が体験したことと同じになるだろう。』というと、彼らは『承知しました』と同意しつつも、戻ってきて報告する者はなく、使いもよこさない。それが論拠である。」

先ほどの地獄の報告を自分にした者は誰もいない、という論拠と同じですね。ですから、それに対する仏弟子のクマーラ・カッサパも、同じように天界の報告がないからといって、天界がない、ということにはならないだろう、という同じような応えです。

ただ、私は、その譬え話がとても興味深いと思いました。その譬え話は、次回に譲ります。