人間世界は神々の世界から見ると、どう見えるのか。

引き続き、前回の記事のつづきです。

 善行をしていた者は、死後、善いところ、天界に再生するはずなのに、誰も戻って報告する者がいないから、天界はない、来世はない、と主張するパーヤーシ王に対して、仏弟子クマーラ・カッサパは、例え話で応えます。

「王族のお方よ、たとえば、ここに男がいて、肥溜めの中に落ちて首まで糞尿につかったとする。そして、あなたが家臣たちに『この男をその肥溜めから救出せよ』と命じ、救出されるだろう。さらに、家臣たちに『糞を竹べらで拭き取ってやれ。そして、その男の体を三度洗って、香油を塗り、浄めよ。そして、その男の髪や髭を整えさせ、高価な花輪と香水、それに衣装をもってこさせよ。そして、高い楼閣のうえに登らせて、五つの欲望の対象を楽しませよ』と命じ、男をそのようにさせた。

 王族の方よ、どうお考えか。沐浴し、香水を塗り、髪や髭を手入れし、花輪や装飾で飾り、白衣をまとい、高い楼閣に登って、五つの欲望の対象を楽しんでいるこの男が再び、あの肥溜めに戻りたいと思うだろうか。」

「そうは思わないだろう。尊きカッサパよ、肥溜めは不浄であり、悪臭がして、嫌悪すべきもので、忌まわしいものだからである。」

「王族のお方よ、人間の世界もこれと同じで、天の神々の世界に比べれば、この人間の世界は不浄であり、悪臭がして、嫌悪すべきもので、忌まわしいところなのである。だから、あなたの友、知り合い、親族に、天界に再生したら、この世に戻って報告せよ、という約束をいくら交わしても、報告などしようか。」

天界の神々から見ると、この人間世界は、肥溜めのように悪臭がして、不浄なところだという譬えがおもしろく、神仏への祈りの作法の意味、心構えに気づかされるところがあります。

 さて、仏弟子カッサパは、「この論拠によって『来世は存在し、生まれ変わりはあり、善悪の行いによって、その報いを受ける』ということを信ずるべきである。」と迫りますが、パーヤーシ王は、「尊きカッサパが、いかにおっしゃろうとも、わたしは『来世はなく、生まれ変わりもなく、善悪の行いによってその報いを受けることはない』と思う。」と応じ、納得がいきませんでした。

 パーヤーシ王の言い分は、『死者から何の連絡もないから、あの世はない、来世もない。だから、善いことをしたって、悪いことをしたって、その報いを受けることはない。」というものでした。

 一方、仏弟子のクマーラ・カッサパは、「あの世は存在していても、この世でも連絡不能な事情があるように、あの世とこの世も連絡不能な状態である。だから、あの世はない、ということにはならない」という主張です。「なぜ、あの世と連絡不能なのか。そもそもあの世などはないからだ。」という仮説に対して、「あの世はあるのだが、連絡不能なのだ。」という別の仮説を示したわけです。

 しかし、パーヤーシ王の言い分を誤りだという仏弟子カッサパの主張は、別の仮説を掲示しただけで、説得力が足りませんでした。

 仏弟子のカッサパは、このあと、さまざまな譬えを使って対話していますが、次回、「生まれながらにして目の見えない人のたとえ」をとりあげてみたいと思います。