平和を祈る

 先日、阿含宗総本殿で行われた開祖法恩感謝涅槃会にお参りしました。

 本山境内地には、阿含宗エルサレム平和友好広場があり、そこには、イスラエルから寄贈された「エルサレムの獅子」像が安置されています。

 表示版には次のお言葉が記されています。

『本年二月、阿含の星まつり・神仏両界大柴燈護摩供修法の場において、イスラエル国エルサレム市より、阿含宗との友好の印として市の象徴たる「エルサレムの獅子」像を寄贈さる。

 宗教融和の極みなり。

 釈尊の成仏法修練の場である錬成道場境内に、この「エルサレムの獅子」を奉安し、もって阿含宗エルサレム市との友好長久なるを願うとともに、世界の恒久平和と宗教融和を祈念し、ここにこの境内地を「阿含宗エルサレム平和友好広場」と名づくるものとする。

 平成二十年(ユダヤ暦五七六八年)七月吉日

 阿含宗管長 桐山靖雄』

 

 その獅子像の隣には、ユダヤ教キリスト教イスラム教の三大宗教の聖地エルサレムに建立された「世界平和祈念仏舎利塔」と同じ形状の仏舎利塔が安置されています。

『平成二十年九月、イスラエル国エルサレム市平和の森公園において、イスラエル建国六〇周年を奉祝し世界平和を祈念する大柴燈護摩供を厳修す。これ、イスラエル国の人々の阿含宗への理解と平和希求の尽力によって成就せしものなり。

 爾来、阿含宗エルサレム市の友好愈(いよいよ)増して今日に至る。

 而して本年、大柴燈護摩供五周年を機に、八月、イスラエル国エルサレム植物園」に建立せし仏舎利塔と対となる仏舎利塔を本日、ここ「阿含宗エルサレム友好広場」に建立し、もって永代にわたり、イスラエル国恒久平和と繁栄、さらには中東和平、世界の恒久平和を祈念せんとす。

 願わくば、二基の仏舎利塔に捧げるこの祈りによって、すべての人類に宗教融和と恒久平和が招来されんことを。

   平和の祈り

ノウバ サッタナン サンミャクサンボダクチナン タニャタ オン シャレイ シュレイ ジュンテイ ソワカ

 平成二十五年(ユダヤ歴五七七四年)九月吉日

 阿含宗管長 桐山靖雄』

 

 日本から遠い中東の地ですが、今こそ、世界平和の祈りをささげなければいけない、と思い、祈りました。

 一見、日常とかけ離れた、遠い国の「平和」を祈ることは、一体、どういう意味があるのでしょうか。

 次の本は、それを考えるきっかけになりました。

 アイシュタインとフロイトが、「ひとはなぜ戦争をするのか」について書簡を交わし、その人間の本性を語り合っています。

 アインシュタインは、フロイトへの手紙の中で、こう書いています。

「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」

「数世紀ものあいだ、国際平和を実現するために、数多くの人が真剣な努力を傾けてきました。しかし、その真摯な努力にもかかわらず、いまだに平和が訪れていません。とすれば、こう考えざるを得ません。人間の心自体に問題があるのだ。人間の心のなかに、平和への努力に抗う種々の力が働いているのだ。」

「答えは一つしか考えられません。人間には本能的な欲求が潜んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が!」

「人間の心を特定の方向に導き、憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか?」

 

 仏陀釈尊仏舎利)に私が「世界平和」を祈る理由のひとつは、自分の中に潜む「憎悪と破壊という心の病」をなんとか抑える第一歩になる、と思っているからです。

 仏教とはひとことでいうならば、人間改造の方法である。まさに仏教こそ、人間改造の超技術であった。人間を、人間以上の存在 ― 仏陀 ― に改造するための技法である。

 わたくしは、この時代、こういう視点に立っての仏教の把握と提唱[アピール]こそ、まさに仏陀の理念に添うものであると確信するのだ。

 なぜならば、いまほど、人間改造の技法はなく、仏陀ほど、高い理念に立って社会の改造を願われたおかたはないからである。

 いまや、われわれの世界は行きづまっている。世の中が、このままでいいとは、だれだって思っていやしない。あなた自身、そうであろう。あなたは、あなたの周囲を見まわして、これでいいと思っているであろうか。この社会がこのままでいいとはだれだって思っていやしないのだ。しかし、社会の改造は、まず、ヒトの改造からはじめられなければならないのである。制度をどのように変え、機構をどう変えてみたところで、ヒトが変わらぬかぎり、社会は、結局、もとのすがたにかえってしまう。それは歴史が証明している。ヒトが改造されねばならぬのだ。そうして、仏教ほどすぐれた人間改造の技術はないのである。

 桐山靖雄著『人間改造の原理と方法』より