六度の行

 六度の行とは、布施行、持戒行、忍辱行、精進行、禅定行、そして、智慧行のことですが、その実践となると、難しいことです。

 そこで、大いなる存在に祈って、布施行を実践できるように、閼伽(水)をお供えして、ご加護を祈ります。

 持戒行も、ふくよかな香り(品格)が身に備わることをあらわす塗香を塗って、実践できるようにご加護を祈ります。

 忍辱行は、辛抱して我慢してついに美しく咲かせるように、お花をお供えして、実践できるようにご加護を祈ります。

 精進行は、香の煙を絶やさず焚き続けて、絶え間なく努力精進できるように、線香をお供えして、ご加護を祈ります。

 禅定行は、智慧の糧をあらわすものとしてお供物をお供えし、ご加護を祈ります。

 最後は、六度の行の集大成として智慧行を実践できるように、一寸先は闇の無明の暗闇を照らして、行くべき道を明らかにするものとして、燈明をお供えしご加護を祈ります。

 徳を養い育てていくことが何より大切なことだと思っています。徳が智慧行の推進力になっていくのだろうと考えています。

❝リーダーの条件❞

 リーダーとしては、才能もあり、素質にも恵まれた人の中に、立場が変わって、リーダーの下でものごとを推進しようとするときに、そのチームの和を破ってしまうということが、よく見受けられます。

 そういう人は、自分がお山の大将で、ものごとが順調に進んでいるときは、優れた力量を発揮しますが、いったん、負け戦さになると、ガタガタになって力を出し切れません。

 そのため、結局、リーダーとしての資格もなかったと言われることになります。

 人生、長い間には、つまづくことも出てきます。

 しかし、たとえ、どんな苦境に陥ろうと、しっかりと自分の配軍(敗軍?)の兵隊を把握して、戦場をうまく切り抜けて行く。

 あるいは、状況が好転するまで、ジッと待つことも厭わない。

 自分の意のままに、幾多の戦術を使い分け、その場その場に適用していく。それらが、自由自在にできて、はじめて本当のリーダーと言えるのではないか。

 ところが、強気一点張りの、お山の大将的な人は、勝ち戦さのときには、戦果を拡大できるでしょうが、負けが混んできますと、部下を掌握して闘うということができなくなってしまいます。

 ということは、部下の心を離反させてしまい、皆、命令を素直に聞かなくなり、逃げていってしまうということです。

 それでは、何故、そういうことになってしまうのか。

 それは、人に協力させることができないという人は、そもそも、自分自身、協力者としての資格に欠けるところがある、ということです。

 自分自身を棚上げにして、人に協力させることができる道理がありません。人に協力させる力のある人は、自分も人に協力できる人である、と言えるわけです。

 そのことを、よく認識して、自由自在に、自分の置かれた立場で、その責務を立派に果たしていくことが、大切なことだと思います。

(この文章は例祭、行動隊定例会での会長先生*1のお話をもとに編集部*2でまとめたものです。)[※原文のまま]

 阿含宗機関誌『大法城』(昭和55年9・10月合併号)の巻頭より

「人に協力させる力」は徳を養うことで培っていきたいものです。

*1:阿含宗開祖桐山靖雄管長猊下

*2:当時の関西本部の機関誌「大法城」の編集部