智慧の拡大

ブッダと神々の対話

第八章・第三節 財

〔神いわく、ー〕

「この世で、人にとって最上の財は、何であるか?

 何を良く実行したならば、幸せをもたらすか?

 実に諸々の飲料のうちですぐれて甘美なるものは、何であるか?

 どのように生きる人を、最上の生活と呼ぶのであるか?」

〔尊師いわく、ー〕

「ありのままの真理を信ずることは、この世において人の最高の財である。

 徳を良く実行したならば、幸せをもたらす。

 真実は、実に諸々の飲料のうちでもすぐれて甘美なるものである。

 明らかな智慧によって生きる人を、最上の生活と呼ぶ。」

 サンユッタ・ニカーヤより

 世間福を求める信仰と、出世間福を求める信仰があります。

 仏教は、世間福よりも出世間福のほうが優れていると、説かれます。

 小説の題名を忘れてしまいましたが、世間福を求める信仰と出世間福を求める信仰の違いをよく示したストーリーがあります。

 あるところに、信心深い人がいました。毎日、神さまを拝んでいました。

 あるとき、どうしても月末にお金が必要になったので、一心に神さまにお願いしました。

「どうか、どうか神さま、この月末までに必要なお金が入りますように。日頃のこの信心により、どうかこの願いをかなえてくださいませ。」

 神さまも弱りました。実は、この商人には、そういうお金の入るべき良い因縁がありませんでした。信心はしているけれども、ただそれだけです。悪い因縁がそのままになっています。

 しかし、あんまりお願いするものですから、神さまも仕方なく、手下の神さまになんとかしてやるようにと指図しました。

「はっ! 承知いたしました。」

 手下の神さまは、なんとか苦心して商人の願いをかなえるように手配しました。

 その結果、商人は、月末前に、必要なお金を確かに受け取ることができました。

 商人はさぞかし喜んだでしょう。

 ところが、違っていました。

 商人は、大変、悲しみました。後悔しました。

 なぜならば、商人の受け取ったお金は、可愛がっていた大事な大事な一人息子が自動車にひかれて、見舞金やら保険金やらもらったのが、ちょうど月末までに必要だったお金の額だったのです。

 こうしてください、ああしてくださいと、小さな人間の知恵でお願いして、あるいは、行動して、願望成就したところで、それが果たして究極の幸福になるのか、ということを考えさせられる話です。

 悪い因縁を転換し、良い因縁(徳)を積んで、おのずと良い境界に上がっていくことができたら、なんの心配もいらなくなるでしょう。因縁解脱して智慧を高めていく、それが、出世間福です。

 財産、お金、地位、健康という世間福を追い求めるのは、結構です。当然の願望だと思います。

 しかし、ブッダは、その世間福の求め方に何か欠けているものはないですか、ということを問いかけているように思います。

神霊冥助

 ブッダ最後の旅(大パリニッバーナ経)にあった一節です。

「アーナンダよ、ここでわたしは、清らかな超人間的な天眼をもって、千もの多くの神霊たちがパータリ村に敷地を構えているのを見た。優勢な神霊たちが敷地を構えようとする地方には、優勢な国王または大臣が住居を建築しようと心を傾ける。中位の神霊たちが敷地を構えようとする地方には、中位の国王または大臣が住居を建築しようと心を傾ける。低位の神霊たちが敷地を構えようとする地方には、劣勢の国王または大臣が住居を建築しようと心を傾ける。」

 その土地に住む人間は、そこに住まわれる神霊と相関関係にあるという記載がとても興味深く思います。

「アーナンダよ、パータリプッタが立派な場所である限り、商業の中心地である限り、ここは首都であり、物資の集散地であるであろう。しかし、パータリプッタには三種の災難があるであろう。すなわち火と水と内部からの分裂とによるものである。」

 パータリプトラは、マウリヤ王朝の首都となり、その衰亡は八世紀の半ばに洪水で亡んだことが、考古学的発掘で確認されているようです。

 ブッダがパータリ村を訪れたときは、マガタの大臣であるスニーダとヴァッサカーラが、城郭を建設しているときでした。ブッダは、その大臣から、供養のおもてなしを受けて、次のような詩句を唱えました。

聖賢の生まれなる人が

住居をかまえる地方において、

そこで、有徳にして自ら制せる清浄行者たちを供養したならば、

そこにいる神霊たちはかれらに施与の功徳をふり向けるであろう。

かれら神霊は供養されたならば、またかれを供養し、

崇敬されたならば、またかれを崇敬する。

かくて、かれを愛護すること、

あたかも母がわが子を愛護するようなものである。

神霊の冥々の加護を受けている人は、つねに幸運を見る。

 ブッダは、ここで、都市の建設には、都市をまもる神霊冥助が必要であるということを説かれたようです。根本仏教でも、神霊冥助の教えがあったことを確認できます。

無貪(むどん)

〝【今月のメッセージ】〟

〝ベストがだめならベターでゆけ〟

〝【今月の大善地法】〟

 〝無貪(むどん)〟

〝貪らないようにしましょう。〟

〝地位、権力、物質などに執着したりとらわれたりしないようにしましょう。〟

 

 昨日、恵比寿大黒天まつりで引いたおみくじです。

 気づかずに、因縁で仮合された我欲に執着しているのかな。我欲を捨てて、人を立てて、協力しなさい、と恵比寿大黒天様はおっしゃっておられるのかもしれません。

十二支縁起の意味

 ブッダの説かれた十二支縁起、十二因縁とは、自分にとって、どういう意義があるのか、考えを深めてまいりたいと思います。

 人間は霊的存在で、渇愛(タンハー)を断たない限り、迷いの世界を輪廻して苦しみ続けると、根本仏教では説かれます。そして、苦しみを断つために、四諦の法門、十二支縁起(十二因縁)という縁起説が説かれました。

 その十二支縁起の法門は、四諦とともに、もっとも重要な法門とされていますが、四諦とちがって、非常に難解な教法として知られています。

 中村元博士は、このように書いておられます。

『昔から難解であると言われていたものが、現代のわれわれにとってなおさら難解であることは言うまでもない。現代の学者の間でも解釈が様々に分かれている』(『原始仏教の思想』下)

 また、ブッダご自身も、甚深難解の法門だと説いています。

『執着を楽しみ、執着を喜ぶ人々にとっては、この縁性、縁起なる理法は見難く理解しがたいものである』

 ブッダご自身が難解であると説かれ、「現代のわれわれにとってなおさら難解である」教えですから、難しいことは当然のことと思いますが、少しでも自分にとって、どういう意義があるのかを考えてまいりたいと思います。

 その十二支縁起は、次のような内容です。

 無明=真実相にたいする根源的無知

 行 =潜在的形成力

 識 =認識作用

 名色=名称と形態

 六処=六つの領域、眼・耳・鼻・舌・身・意

 触 =接触

 受 =感受

 愛 =妄執・渇愛(タンハー)

 取 =執着

 有 =生存

 生 =生まれること

 老死=老い死ぬこと

 以上の十二の因縁を説く教えであり、瞑想法でもあります。

 しかし、瞑想するにしても、知識がなければできませんので、必要な知識を備えることから始めていきます。

 どのように修観していくかといいますと、この十二支縁起の修観は、順観と逆観があるといいます。

 順観は、諸々の条件が集まって苦しみが起こっていることを観察し、逆観は、苦しみを引き起こす諸々の条件を滅ぼし尽くすことを観察していくものです。どちらを中心に据えるかというと、逆観になります。

 苦しみという人生のもっとも切実な問題を解決するのが目的だからです。問題の解明が目的ではありません。

 したがって、この十二支縁起の逆観は、無明から老死へ下って観ずるのではなく、老死からさかのぼって無明に向かう順番で修観していきます。

1.老い死ぬこと

 人間の苦しみは、究極、死の現象です。老いも死の現象にともなう苦しみです。

2.生まれること

 いかにして、老い死ぬことが生ずるのでしょうか?

 それは「生まれること」を縁としているとされています。

3.生存

 では、なにがあるときに「生まれること」が起こるのか?

 「生まれること」はいかなる縁にもとづいて起こるのか?

 生存があるときに生まれることが起こる。生まれることは生存の縁にもとづいて起こる。とされています。ここでいう生存とは、輪廻の状態において生きている迷いの生存ということです。

4.執着

 では、なにがあるときに生存があるのか?

 いかなる縁にもとづいて生存があるのか?

 実に執着があるときに生存がある。執着という縁にもとづいて生存がある。

 この執着は、生きている人間がなにかに執着するというものではなく、生命というものを存在させる根源的な力をさします。

5.妄執(渇愛

 では、なにがあるときに執着があるのか?

 妄執があるときに執着がある。妄執の縁にもとづいて執着が起こる。

 この妄執とは、渇愛で、喉のかわいた者がひたすら水を求めてやまないような激しい欲望をいいます。

6.感受

 さて、なにがあるときに妄執があるのか?

 いかなる縁にもとづいて妄執が起こるのか?

 感受があるときに妄執が起こる。感受という縁にもとづいて妄執が存する。

 感受とは、苦・楽等の印象感覚を受けることです。

7.接触

 では、なにがあるとき感受が起こるのか?

 いかなる縁にもとづいて感受があるのか?

 接触があるときに感受が起こる。接触という縁にもとづいて感受がある。

8.六つの領域(六処)

 では、なにがあるとき接触が起こるのか?

 いかなる縁にもとづいて接触があるのか?

 六つの領域があるときに接触が起こる。六つの領域という縁にもどづいて接触がある。

 六つの領域とは、眼・耳・鼻・舌・身・意のそれぞれの領域のことです。

9.名称と形態(名色)

 では、なにがあるときに、六つの領域が起こるのか?

 いかなる縁にもとづいて六つの領域があるのか?

 名称と形態があるときに六つの領域が起こる。名称と形態という縁にもとづいて六つの領域がある。

 名称とは、人間の心の作用によって表象されるのものです。形態とは、心の作用によって表象される、かたちあるものすべてです。

10.認識作用(識)

 では、なにがあるときに、名称と形態が起こるのか?

 いかなる縁にもとづいて名称と形態があるのか?

 実に認識作用があるときに、名称と形態が起こる。認識作用という縁にもとづいて名称と形態がある。

 認識作用には、眼・耳・鼻・舌・身・意のそれぞれによる六つの認識作用があります。接触と認識の違いが述べられています。

11.潜在的形成力(行)

 なにがあるときに認識作用が起こるのか?

 いかなる縁にもとづいて認識作用があるのか?

 潜在的形成力があるときに認識作用が起こる。潜在的形成力という縁にもとづいて認識作用がある。

12.無明(根源的無知)

 なにがあるときに、潜在的形成力が起こるのか?

 いかなる縁にもとづいて潜在的形成力があるのか?

 無明があるときに、潜在的形成力が起こる。無明という縁にもとづいて潜在的形成力がある。

 無明とは、根源的無知とされています。

 ブッダは、無明が輪廻の起こる根本原因であるとされました。

 苦しみの原因追求は、無明によって究極となります。

 無知は無知として知られたとき、それは消滅します。無明は発見されることによって消滅します。たとえば、夢を見ている人に、夢を見ている間は、それが夢であることに気づかず、苦しんだり、悩んだりしていますが、それが夢であることに気がついたときには、夢から覚めています。

 無明もそれが無明であることに気がつかないから、無明に惑わされるのですが、無明を発見して、その本質を知れば、無明の迷妄性から脱することができる、とされます。

 以上で、十二支縁起の逆観を大雑把に説明を試みました。

 これを瞑想していくには、まだまだ知識が不十分ですが、少しづつ、試みたいと思います。

 お釈迦さまの瞑想は、「縁起観」にこの「十二因縁」を絡めながら進めますから、非常に複雑で難解です。同時に、非常におもしろい。なぜならば、この瞑想を体得すれば、世の中でわからないものがなくなるからです。一種の透視力が備わると考えればよいでしょう。物を観れば物の本質を見抜き、人を観れば人の本質を見抜く力が身に備わるのです。

阿含宗開祖・桐山靖雄大僧正猊下のご法話より

 

信解円通

 清水俊史著『ブッダという男』(ちくま新書)を読んでいます。

 仏教の開祖・ブッダをどのようにとらえるか、私は、信仰の対象・御本尊として敬い、法身仏として礼拝供養する立場です。ブッダの教説によって、自分をどのように救うか、信仰の指針にします。

 学問として研究する先生方から見たら、全くのド素人で、「仏教学」のアマチュアです。

 学問の世界と、道を求める信仰の世界とでは、見解の一致しないところがあるかもしれません。

 著者の意図とは全く違う解釈をしていくかもしれませんが、自分の信仰に都合よく自由に読ませていただきます。

神話を事実である「かのように」捉える

 明治45年(1912)1月の『中央公論』に掲載された森鴎外の小説「かのやうに」は、今でも宗教を学ぼうとする者に強い印象を与える。主人公の五条秀麿は、大学でサンスクリット語(古代インドの言語)を学び、「カニシカ王と仏典結集」という卒業論文を書き終えると、大学卒業後はドイツに留学し、そこでさまざまな学問を吸収した。

 かねてから五条秀麿は、生涯の事業として国史を書くことを企てていたが、批判的学問の洗礼を受けた後では、「神話と歴史とを一つにして考えていることは出来まい」と、神話と歴史の対立性に悩む。『古事記』『日本書紀』の天地開闢天孫降臨の物語を神話として位置づけ、それに歴史性を認めないことは、信仰につまずきを与え、万世一系の国体を否定することに繋がりかねないからである。結局、主人公の五条秀麿は、神話が歴史的事実ではないと認めながらも、神話を事実である「かのやうに」捉えることでこの問題を乗り越えようとする。

清水俊史著『ブッダという男』(ちくま新書)より

 神話を事実である「かのやうに」捉えることで、なっとくしていない知性と理性を乗り越えようとするのは、感情(フィーリング)だけの「信」で、なにかあるとすぐに揺らぐ恐れがあります。

 宗教は「信」によって成り立つものですが、なんでもかんでも頭から信じればいいというものでもありません。知性と理性というものがあります。正しい「信」をゆるぎなく持つためには、その知性と理性による洗礼をうけて、「なっとく」できるように努力していくことが必要だと考えます。

トルストイが、追憶の記にこういうことを書いています。自分は信心深い家庭に育って、神というものを心から信じていた。15、6歳の時に、尊敬している友人と話し合っていて、なにかのことから、なんだお前は神様なんてほんとうにいると思っているのか、バカだなあ、嘲笑されて、それまでの神への信仰がいっぺんにくずれてしまった。そのショックから立ち直るのにずいぶん時間がかかったと告白しています。

  信(しん)あって解(げ)なければ

  無明(むみょう)を増長(ぞうちょう)し

  解(げ)あって信(しん)なければ

  邪見(じゃけん)を増長(ぞうちょう)す

  信解円通(しんげえんつう)して

  方(まさ)に行(ぎょう)の本(もと)となる。

 信ずるということがあっても、それを十分に理解する、すっかり意味がわかるということがなくては、ただ一応わかったという程度で信じているならば、無明を増長するといって、信ずることが結局、迷いを増長するもとになる。世間でよくいう「鰯の頭も信心から」というほどの極端でなくても、ほんとうに強く深い信仰を持つためには、おなじように深い理解がなくてはならない。しかし、また、よくわかったという解だけがあって信がなければ、邪見を増長する。邪見というのは、理くつを自分に都合のよいようにくみたてる。場合によっては自分本位に曲げてしまう。これは信ずるという力がないからです。自分をもとにして、自分たちの周囲のことだけを考えて、それ以上の存在である佛に帰依することができない。そうなると邪見を増長する。邪といって、かたより間違った考えが起きてくる。それだから信解円通するといって、信ずる力と解する力とがひとつになった、まさに、その時、はじめて、間違いのない修行の根本ができあがるのである。と、おおよそそういった意味です。この円通という言葉はまことによい言葉でありまして、円というのはそろうこと、通ということはそのそろったものがひとつになることです。そろっただけではいけない。・・・そろっていても別々になっていては役に立たない。そろったものがひとつにならなければそろった甲斐がない。「信解円通」とある。信と解とが両方そろって、それがとけ合ってひとつになった、そのとき、はじめてほんとうの修行となるのです。

桐山靖雄著『説法六十心Ⅰ』(平河出版社)より

 信じるために、ブッダの教説を疑っていきます。信仰心を深めるために。