信解円通

 清水俊史著『ブッダという男』(ちくま新書)を読んでいます。

 仏教の開祖・ブッダをどのようにとらえるか、私は、信仰の対象・御本尊として敬い、法身仏として礼拝供養する立場です。ブッダの教説によって、自分をどのように救うか、信仰の指針にします。

 学問として研究する先生方から見たら、全くのド素人で、「仏教学」のアマチュアです。

 学問の世界と、道を求める信仰の世界とでは、見解の一致しないところがあるかもしれません。

 著者の意図とは全く違う解釈をしていくかもしれませんが、自分の信仰に都合よく自由に読ませていただきます。

神話を事実である「かのように」捉える

 明治45年(1912)1月の『中央公論』に掲載された森鴎外の小説「かのやうに」は、今でも宗教を学ぼうとする者に強い印象を与える。主人公の五条秀麿は、大学でサンスクリット語(古代インドの言語)を学び、「カニシカ王と仏典結集」という卒業論文を書き終えると、大学卒業後はドイツに留学し、そこでさまざまな学問を吸収した。

 かねてから五条秀麿は、生涯の事業として国史を書くことを企てていたが、批判的学問の洗礼を受けた後では、「神話と歴史とを一つにして考えていることは出来まい」と、神話と歴史の対立性に悩む。『古事記』『日本書紀』の天地開闢天孫降臨の物語を神話として位置づけ、それに歴史性を認めないことは、信仰につまずきを与え、万世一系の国体を否定することに繋がりかねないからである。結局、主人公の五条秀麿は、神話が歴史的事実ではないと認めながらも、神話を事実である「かのやうに」捉えることでこの問題を乗り越えようとする。

清水俊史著『ブッダという男』(ちくま新書)より

 神話を事実である「かのやうに」捉えることで、なっとくしていない知性と理性を乗り越えようとするのは、感情(フィーリング)だけの「信」で、なにかあるとすぐに揺らぐ恐れがあります。

 宗教は「信」によって成り立つものですが、なんでもかんでも頭から信じればいいというものでもありません。知性と理性というものがあります。正しい「信」をゆるぎなく持つためには、その知性と理性による洗礼をうけて、「なっとく」できるように努力していくことが必要だと考えます。

トルストイが、追憶の記にこういうことを書いています。自分は信心深い家庭に育って、神というものを心から信じていた。15、6歳の時に、尊敬している友人と話し合っていて、なにかのことから、なんだお前は神様なんてほんとうにいると思っているのか、バカだなあ、嘲笑されて、それまでの神への信仰がいっぺんにくずれてしまった。そのショックから立ち直るのにずいぶん時間がかかったと告白しています。

  信(しん)あって解(げ)なければ

  無明(むみょう)を増長(ぞうちょう)し

  解(げ)あって信(しん)なければ

  邪見(じゃけん)を増長(ぞうちょう)す

  信解円通(しんげえんつう)して

  方(まさ)に行(ぎょう)の本(もと)となる。

 信ずるということがあっても、それを十分に理解する、すっかり意味がわかるということがなくては、ただ一応わかったという程度で信じているならば、無明を増長するといって、信ずることが結局、迷いを増長するもとになる。世間でよくいう「鰯の頭も信心から」というほどの極端でなくても、ほんとうに強く深い信仰を持つためには、おなじように深い理解がなくてはならない。しかし、また、よくわかったという解だけがあって信がなければ、邪見を増長する。邪見というのは、理くつを自分に都合のよいようにくみたてる。場合によっては自分本位に曲げてしまう。これは信ずるという力がないからです。自分をもとにして、自分たちの周囲のことだけを考えて、それ以上の存在である佛に帰依することができない。そうなると邪見を増長する。邪といって、かたより間違った考えが起きてくる。それだから信解円通するといって、信ずる力と解する力とがひとつになった、まさに、その時、はじめて、間違いのない修行の根本ができあがるのである。と、おおよそそういった意味です。この円通という言葉はまことによい言葉でありまして、円というのはそろうこと、通ということはそのそろったものがひとつになることです。そろっただけではいけない。・・・そろっていても別々になっていては役に立たない。そろったものがひとつにならなければそろった甲斐がない。「信解円通」とある。信と解とが両方そろって、それがとけ合ってひとつになった、そのとき、はじめてほんとうの修行となるのです。

桐山靖雄著『説法六十心Ⅰ』(平河出版社)より

 信じるために、ブッダの教説を疑っていきます。信仰心を深めるために。