ブッダという男と初期仏教

 小雪が舞う中、京都の寺町通りにある仏教書専門店に寄りました。

 店内に入ると、清水敏史著『ブッダという男 ― 初期仏典を読み解く』(ちくま新書)と、馬場紀寿著『初期仏教 ― ブッダの思想をたどる』(岩波新書)が並んで平積みされていました。なかなか粋な計らいです。ついつい二冊、同時に買い求めてしまいました。

 2冊とも、まだ、パラパラとめくっただけですので、感想というより、精読前の問いかけを書きます。

 ひとつは、アカデミックハラスメント問題になるほどの論争となった、お二人の争点の本質は、一体、何だろうか、ということです。

 清水俊史氏によると、自著『上座部仏教における聖典論の研究』(大蔵出版)に、馬場紀寿氏(東大教授)を批判する内容が含んでいたため、出版妨害が起きるほどの問題になったことが明かされています。詳細は、その本を読まなければわからないかもしれませんが、購入した新書2冊からも、少し浮彫にされているように思います。

 馬場氏は、仏典の読解には、大きく分けて次の三つの読解があるといいます。

 第一に、読み手が現代的な視点で自由に解釈する読解。

 第二に、教団の正統的な教学にもとづく伝統的解釈。

 第三に、歴史の文脈のなかで解釈を追求する歴史的読解。

 馬場氏の学問的立場は、第三の歴史的読解で、仏典を歴史的文脈で読み解き、文献学に忠実に読解していくという立場です。

 それに対し、清水俊史氏の主張は、歴史的ブッダよりも、人々から信じられてきたブッダの姿こそが、人類に大きな影響を与えてきたという点が重要ではないかという主張です。ブッダの研究は、中村元博士が仏典から神話的装飾を取り除くことで描き出した〝人間ブッダ像〟を超える研究がなく、もはや手詰まりになった停滞期を迎えていると清水氏はいうのです。そして、仏教学者たちが語る「歴史のブッダ」と称されるものは、現代に創作された〝新たな神話〟にすぎない、とまで断定するのです。清水氏は、「歴史のブッダ」ではなく、また、「神話のブッダ」でもなく、その両者を分け隔てない、ブッダの先駆性を明らかにしていくという立場のようです。

 19世紀以降、初期仏典を〝信じる〟のではなく、〝批判的〟に考察して、そこから神話的装飾や後代の加筆を削除することで、「歴史のブッダ」を復元しようという伝統的な文献学の仏教研究に異議を唱えているところが、論争の本質なのかなあ、と思いました。

 もうひとつは、阿含仏教を信仰する私にとって、とても関心のあるテーマになります。それは、ブッダの修行論について、どれくらい触れているのか、ということです。

 ブッダの先駆性に注目するのであれば、ブッダは弟子たちに、どういう修行をさせて叡智を獲得させたのか、その内容に注目したいのです。

修行法の確立

 人間性を浄め、霊性を高める修行法がなければならない。人間性を浄め、霊性を高める究極の果てに、奇蹟を起こす力の獲得があるからである。

 修行法は、神秘的なものであっても、システメティックなものでなければならない。

 私の教団の例をあげることを許していただければ、次のようなものである。これは仏陀釈尊阿含経に説くところの修行法である。

 四念処法、四正断法、四神足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道法。

 これは、アビダルマ仏教の論師たちによって「七科三十七道品」とよばれるものだが、私は、これを「完成(成仏)のための七つのシステム、三十七のカリキュラム」とよんでいる。

週刊「図書新聞」(1997年3月22日号)にお寄せになられた阿含宗開祖の一文より

 七科三十七道品について、その内容を知る手がかりを探りたいと考えていますが、やはり、文献学よりも密教から入るほうがわかりやすいのかもしれません。