八正道

 ブッダとなられたゴータマは、鹿野園において五人の修行僧たちに成覚後、はじめて説法されました。「四聖諦」という四つの聖なる真理とともに「八正道」が説かれました。初転法輪(しょてんぽうりん)といわれる出来事です。

『実に「苦しみ」という聖なる真理は次のごとくである。

 生きるということは苦しみである。

 老いる苦しみがあり、死の苦しみがあり、憎い人(物、出来事)に会う苦しみがあり、愛する人(物、出来事)と別れる苦しみがあり、欲するものを得られない苦しみがある。すべて(悟らざる者が)生きるということは苦しみである。

 実に「苦しみの生起の原因」という聖なる真理は次のごとくである。

 それは苦しみの原因となるものを集めて生きているからである。それは欲望に対する妄執、生存に対する妄執、生存の絶無に対する妄執から生じたものである。

 実に「苦しみの止滅」という聖なる真理は次のごとくである。

 それは、苦しみの原因となるものを止滅し、それからの解脱である。

 実に、「苦しみの止滅に至る道」という聖なる真理は次のごとくである。

 これは実に聖なる八支より成る道である。すなわち、正見(正しい見解)、正思惟(正しい思い)、正語(正しいことば)、正業(正しい行い)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい気づかい)、正定(正しい精神統一)である。』

 八正道は、以下の八種の実践徳目*1です。

正 見:(正しい見解、信仰)仏陀の説かれた苦・集・滅・道の「四諦(四つの真理)」の道理を見る。未だこの見解、智慧を確立していない者にとっては正しい信仰となる。

正思惟:(正しい思惟)正しく四諦の道理を思惟する。自分の立ち位置を考え、何をすべきかを思う。

正 語:(正しいことば)正しい語を口にする。他を有益にさせる言語をなす。

正 命:(正しい生活)身・口・意の三業を清浄にして正しい理法にしたがって生活する。睡眠、食事、運動、休息など、正しく営むことによって健康増進し、生活を健全に遂行させる。

正精進:(正しい努力)道と法に努め励む。理想に向かって勇気をもち、正しく努力する。

正 念:(正しい気づかい)正道を憶念し、邪念のないこと。無常、苦、無我などを常に念頭において忘れず、正しい意識を持つ。

正 定:(正しい精神統一)迷いのない清浄なるさとりの境地に入る。心を静め、精神を集中させ、智慧を得る。

 以上が、八正道の実践徳目とされ、八聖道ともいわれます。

 「正」と「聖」のたった一字の違いですが、視点が大きく変わるように思います。

 「聖は正なり。智は正に適い、行は徳に応ずる。」

 この言葉は、聖者の智慧は絶対に正しくて間違うことがなく、その行いは常に徳に応じているというほどの意味です。昔から仏教には知徳円満という言葉があり、智と徳の二つのそろった理想的な方を、聖者と呼んでいます。

 まさしくこの八種の実践徳目は、ニルヴァーナへ至る聖者の道だといえるでしょう。すべてにわたって正しく実行できるならば・・・。

 しかし、・・・

 凡夫は、それを「正しく」実践できるでしょうか?

 正しいとわかっていながら、実行できなかったり、正しくないと知りつつも、やめられなかったり、するのが凡夫です。

 それ以前に、そもそも凡夫は物事の正邪をきちんと判断することができるのでしょうか?

 凡夫は、なにが正しいか、わからないこそ、悩み苦しみます。よかれと思ってやったことが、後になって間違っていたとわかり、非常に後悔したり、苦しい目にあったりします。

 つまり、なにが正しくて、なにが正しくないか、それを見極める智慧があってこそ、はじめて、本当に正しい判断ができます。

 その正しい判断の元となる智慧はどのようにして身につけられるのか、八正道には、それが具体的に示されていません。智慧を身につけるには、八正道以外のカリキュラムが必要不可欠です。

 釈尊は対機説法で、つねに相手の機根器量に応じて法を説いていたといわれていますから、この八正道は、初学の弟子に説き、ひとつの方向性を示したものではないかと考えられます。

*1:水野弘元博士の書籍より参照