八聖道の構造

 馬場紀寿著「初期仏教 ー ブッダの思想をたどる」(岩波新書)を読んでいます。

 タイトルに「ブッダの思想をたどる」とありますので、ブッダはどういう修行法をお説きになられたのかという問いかけは、筋違いかな、と思いました。

 しかし、「八聖道の構造」という項目に目が留まりました。

 この八聖道という実践法が説かれるとき、ほぼセットで「四諦の法門」が説かれていたようです。

 四諦の法門とは、およそ次のようなものです。

  苦

「苦しいでしょう。」

「はい。苦しいです。なぜ、こんなに苦しむのでしょうか?」

  集

「それは集めているからです。」

「一体、私は何を集めているというのですか?」

「あなたは苦しみのもとを集めているではありませんか。」

「そうでしたか。」

  滅

「では、どうしらいいのでしょうか?」

「その苦しみのもとを滅すればよいのです。」

  道

「苦しみのもとを滅するには、どうしたらよろしいのでしょうか。」

「その苦しみのもとを滅する道があります。その道を歩みなさい。」

ざっくりシンプルですが、このように四諦の法門が説かれたあと、道として「八聖道」が定番になっていたようです。

 馬場氏によると、「三十七菩提分法」という三十七の実践法のうち、二十五の実践法が、八聖道の「正精進」「正念」「正定」に含有されているのだといいます。

 おそらく八聖道から入門者は入って、やがて機根に応じて、さらに高度な修行に入っていったのではないか、と想像いたします。

 では、その実践法とは、どんなものだったのでしょうか。

 仏典の説明では、さまざまな徳目が並んでいるだけで、どのように実践するのかという具体的説明がない、という印象を受けるかもしれない。しかし、口頭伝承の時代には、仏典の内容にかんする具体的な説明やアドヴァイスは、仏典の読誦者が聞き手に向かってそれぞれ語っていた。具体的な修行方法や細かな指示を含む実践体系がテキストにまとめられるようになるのは、書写が始まった後である。

馬場紀寿著「初期仏教 ー ブッダの思想をたどる」(岩波新書)より

 三十七菩提分法を含む八聖道に、後の密教の源泉があり、根本仏教密教の深い結びつきがあります。

 根本仏教密教とは、歴史的にいって、およそ千年以上も隔たり、一見、教義も全く違うように見えます。

 しかし、そうではない、と阿含宗開祖・桐山靖雄管長猊下は自著で述べておられます。

 仏陀根本仏教には、後世でいう「顕教」と「密教」が併存しているのである。

 仏陀阿含経で説かれた「四諦の法門」「十二縁起の法門」は、顕教である。だから、この教理をもとに、後世、大乗仏教(初期大乗)が生まれた。初期大乗の経典は、ご存知の通り、般若経法華経華厳経阿弥陀経等で、顕教である。

 一方、仏陀は、阿含経で「七科三十七道品」(三十七菩提分法ともいう)を説かれた。つまり「成仏法」「因縁解脱法」とよばれるものである。

 これがまさしく「密教」そのものなのである。

 なぜかというと、それは、のちの密教(後期大乗)が、顕教には欠けている密教門独特の法だと主張する「三摩地法」(瞑想)を中心にした修行法だからである(密教の代表的論書である『菩提心論』の主張)。とすると、これはまさに密教そのものではないか。(いうならば「純粋密教」である)

 だからこそ、後世、密教を樹立した天才たちは、ここのところに気がついて、「金剛界法」という密教の教義をつくり、「金剛界マンダラ」をつくったのではないか。

 どうしてそんなことがいえるのか。

 金剛界法の密教の仏さまがたは何体で構成されているか。

 大日如来をはじめとして、三十七体いらっしゃる。

 この三十七体の仏さまがたは、いったい、どこからつくられたのか?

 七科三十七道品の三十七。三十七菩提分法の三十七。ここから三十七体の仏さまがたが作られた。

 釈尊の三十七菩提分法をさっと引き抜いてきて、チャッカリ、密教をつくってしまったというわけだ。

 私が真言密教から離れたのは、それがあまりにも様式化しすぎてしまっているからである。釈尊の三十七種の修行法を、「三十七尊」という三十七体の仏にしてしまって、マンダラ(絵)にしてしまった。

 それによって、わかりやすくはなったが、修行法ではなくなってしまった。いくら頭でわかったって、修行しなければ「力」は出ないのだ。

阿含宗開祖・桐山靖雄著『オウム真理教阿含宗』より引用

 八聖道をもう少し掘り下げてみたいと思います。