栄養の摂り方は心の修行

今週のお題「元気を出す方法」

 「不可能を可能にする」ほどの元気を出すには、どうしたら、いいでしょうか。

 まず、栄養の摂り方から考えていきます。食べた物がよく消化され、脳を含む身体の栄養となるように、反対に、偏った食べ方で脳の栄養失調にならないように心がけます。

 癌で亡くなっている親族が多く、私も体質的にそういう傾向が感じられます。無意識のうちに、うっかり糖分を摂り過ぎたり、偏った栄養の食事をしたりして、何となく、だるくなったり、不機嫌になったりするときがあります。

 私にとって、食べ方は心の修行です。今のところ、大きな病気をしていないだけに、栄養の摂り方が、無頓着になりがちです。

 しかし、栄養の取り方が心にとても大きな影響を与えると、阿含宗開祖・桐山靖雄管長猊下は強調されます。一人の信徒として心得なければなりません。

 私は若い頃、結核を患い、兵隊にも行けなかったくらいなので、自分自身の体力に充分な自信がなかった。いくら固く決意して〝私はこれをやるんだ〟と気力を燃やしても、体力が続かなければ、その気持ち(気力)さえ続かない。気力が落ちれば、しまいには〝そんなことどうでもいいや、自分は自分なりの生き方をすればいい。何もそんなにきばったって仕方ない〟というふうになってしまう。やはり何をするにも、まず体力をつくらねばいけない。健康維持、健康の向上といったものが一番必要であると感じた私はそこで様々なことを勉強しはじめたのである。

 それまでの禅宗の坊さん、修験道密教の坊さん、修行者たちは、案外その点に無頓着だったようである。例えば昔、白隠禅師が指導されていた原の松蔭寺に行くと、お寺の裏に修行中に死んだたくさんの若い坊さんたちの墓がある。墓碑をみると、彼らはみな十代、二十代で死んでいる。これは要するに、たくあんに梅干し、塩辛い味噌汁で食事をとり、全然、栄養を考えていない。それで過酷な修行を積んだ結果、みな若くして結核となり、死んでいったというわけだ。やはり過酷な修行をするからには、強靭な身体をつくらなければ耐えられない。そこで私は栄養学、漢方とあらゆるものを研究した。

 それによって体力をつけ、気力をつけ、不可能なことを可能にしようと思った。気力がなければ集中は持続できない。

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 政治、経済、芸術、なんでも気力が大切だが、特に宗教はなんといっても気力が肝心である。どこまでも集中し、一つのことをやり遂げるか、途中くじけてストップしてしまうか、それが勝負である。

 私が阿含宗まで辿りついて、しかもいまもなお頑張れるのは、その初一念を貫き通す気力を持っていたからである。叩かれても蹴飛ばされても、うちのめされても私は絶対、息の根が止まるまで立ち上がって、くいついていく。その気力がなくなったら、もうおしまいである。どんなに頭がよくても駄目である。その気力はどこからくるかといえば、生まれつきの因縁もあるし、素質もある。が、そういったものがあったにせよ、塩抜きされれば強情な凶悪犯でも気力が失せ、白状しはじめる*1。それらのことから考えれば、やはり食べる物、そして体力が大切である。いまの人々の食生活は贅沢になっているが、肝心のところに思慮の欠けたところがある。人間は、自分の目的にかなった食べ物をとり体力をつけることが大切である。

 そこで私は念力の護摩を焚くときには、それに適応した食べ物の献立を自分でつくるようにした。いまでも私は、自分の身体には何が一番必要かと、常に自分自身の体調を観ている。・・・・・

 人間は、ひとつの精密なマシン(機械)だ。だから精密になるほど、燃料は純度の高いものを補給しなければならない。

 密教の修行に限らず、ビジネスでも何でも、自分の体力と気力を維持しようと思ったならば、まず食べ物に気をつけなければいけない。そのときの体調や状況または仕事の内容などに応じて摂る自分独自のメニューを持つくらい気をつけなければいけないのである。

 心の健康のためには、食べ物、食べ方が大事だいうことを心得て、元気に精進いたします。

 

*1:昔のことで、罪を犯し牢屋にぶちこまれた罪人が、いくら拷問をかけても、絶対に白状しない強情我慢の者がいる。それに対応する手は一つ、塩抜きがある。食べ物から全部塩を抜く。人間というのは塩気を抜かれて4,5日ほどたつと、気力が失せ、〝どうでもいいや〟という気持ちになる。だからいつも牢屋に入るようなベテランは〝塩抜き〟に気づくと牢屋のタタキをなめたり、他の囚人の小便を飲んで塩分を補給したという。