釈尊が、ある村に食を乞うたとき、
その村の人たちは言った。
われらは土地を耕し、種まきをしている。
あなたもまた、耕し、種をまくべきである、と。
そのとき釈尊はいわれた。
われもまた耕し、種をまく者である、と。
大地の土を耕す人もあり、心の大地を耕す人もある。
心を耕す人は、
信を種とし、
智慧で心の土を鋤き、
持戒の縄で放逸の心を縛り、
弛まぬ精進により、
安穏の実りへ導く。
実利の世界に生きる人は、
実利のみに心を費やされ、心の安穏を得ることがない。
だから、あなたもまた、心を耕し、種をまくべきである。
雑阿含経
二つの幸福への道が示されています。
ひとつは、「世間福(せけんふく)」といわれるもので、財、名誉、地位を得るという世俗的な幸福を指します。
もうひとつは、「出世間福(しゅっせけんふく)」といわれるもので、仏陀に至る道で得られる幸福で、凡夫を超越する智慧が得られ、究極の安穏が得られる幸福を指します。
「世間福」よりも「出世間福」のほうが優れていると説かれるのは、「出世間福」は、因縁解脱を得られる幸福だからです。
なぜ、お金がある、出世する、権力を持つという幸福より、因縁解脱で得られる幸福のほうが優れているのでしょうか。
それは、この世はすべて因縁次第で移ろい動き、財も名誉も地位も因縁次第で得たり、去ったりするもので、その因縁から解脱することこそ、安定した人生を歩むことができる、と考えられているからです。
また、「世間福」は、人を一時的に幸せにする条件の一つかもしれませんが、必ずしも本当の幸せにするとは限りません。むしろ人を不幸にしてしまうことのほうが少なからず見かけることでしょう。それも、また、因縁次第です。
因縁解脱の信仰こそ、究極の安穏を得られる道だと私は信じております。