昔、あるところに、とても大きな石を磨いている男がいた。
毎日、朝から晩まで、一日も休まず、せっせと石を磨きつづけている。
近所の人は、
「さぞ、すばらしいものができるにちがいない」
と、噂しあっていた。
しかし、やっとできあがったものを見ると、とても小さく、出来のわるいおもちゃの牛だった。
百喩経四十三、巻の第三
学問や修行に精進し苦労しても、その目的が私利私欲のためならば、「出来のわるいおもちゃの牛」をつくるぐらいのことしかできないだろう、というのが、このたとえ話の伝えたいところです。
「自分さえよければ、ほかのヤツはどうでもいい。どうか自分が偉くなりますように。お金が儲かりますように。」と一心に努力している姿に、人は感心するでしょうか。
いや、スポーツ選手で「自分のために」一心に努力している姿に感動を呼ぶ人はたくさんいますよ、と言われる人もあるかもしれません。
その違いは、一体、何でしょうか?
『夫れ學を為す者は研思し精微にして博通多識、宜しく應に履行して遠く勝果を求むべし、方に名譽を求め傲慢貢高ならば過患を増長せん。』
遠大な勝れた結果(目標)を一心に求めていれば、自ずと私利私欲、わが傲慢さは消えて、多くの人が感心して応援してくださるようになるのでしょう。