月日をかじるネズミ

 釈尊は、あるとき、次のようなたとえ話をされた。

「昔、広々と果てしのない草の生い茂った野原をとぼとぼと歩いている一人の旅人があった。ふと彼は自分の後ろのほうから異様な唸り声と足音を聞いた。驚いて振りかえると、はるか彼方から獰猛な大きな像が自分を目がけて、まっしぐらにやってくるではないか。彼は無我夢中で自分の隠れ場所を求めて走った。

 すると、この広々として頼るべきものもない荒野のまん中に、彼は古い井戸を見つけた。しかも幸いなことに、井戸のそばに生えている一本の樹の根が井戸の中に深く下がっているではないか。彼は無我夢中でその根をつたって、するすると井戸の中に身を潜めた。

 文字通り九死に一生を得て、ほっとしていたのも束の間、眼を下に向けたとき、彼は思わず口の中であっと叫んだ。底知れぬ薄暗い井戸の底には、毒龍が大きな口を開けて、自分が落ちるのを待ち受けているではないか。

 だが、それだけではない。おもむろに自分の周囲を見ると、井戸の四方から四匹の毒蛇が舌をペロペロと出して、今にも噛みつこうとしている。

 彼はあまりにも恐ろしくなって、再び樹の根をしっかりとしがみついた。すると、彼の頭上よりも上のあたりに、白と黒の二匹のネズミが交代に出てきて、彼が命の綱と思っているその樹の根を一生懸命にかじっているではないか。旅人の顔は蒼ざめ、歯はガタガタと震えて止まらない。

 するとそのとき、この樹にミツバチが造っていた巣から甘い五滴の蜜が彼の口に滴り落ちてきた。今までの恐ろしさを忘れるほどの甘味だ。その蜜の甘さに心を奪われ、もっと飲みたいと樹を揺らすと、ハチたちは驚いて、一斉に飛んできて、彼の体中を刺し始めた。しかし、彼にはそれを防ぐ術すらもない。

 そのうえ、彼が気がついたときには、どこからともなく燃えてきた野火が、彼の握りしめている樹の根を、その根元から焼き尽くそうとしていたのだ。旅人の心は恐怖のどん底に堕ちていった。」

 釈尊がここまで話されたとき、大衆の中の一人が質問をした。

「世尊よ、まあ、なんという恐ろしいことでしょう。それほどの怖い目に遭いながら、旅人はなぜ、五滴の蜜ぐらいに、その恐ろしさを忘れることができるのでありましょうか?」

「これはひとつのたとえである。今から、それが何を教えているのか話そう。

 旅人とは、人生航路に旅を続ける人間を譬えている。

 狂象が追いかけてくるのは、無常を譬えている。

 井戸は、人間の世界が迷いの世界の真っ只中にあることを譬えている。

 樹の根は、人間の命のことであり、白黒のネズミは、昼と夜とに譬えている。二匹のネズミが交代で樹の根をかじるように、昼と夜とが循環して、私たちの命はだんだんと消えてゆく。

 四匹の毒蛇は、人間の体を構成している四大(物質の元素である地・水・火・風・空)に譬え、五滴の蜜を楽しむとは、五官(目、耳、鼻、舌、皮膚)の享楽を譬え、ハチは、人間の邪な見解や思想に譬え、野火は、老いや病に譬え、毒龍は死に譬えたものである。

 まことに人は肉体をもっているために、どれだけ苦しまねばならないのだろう。それが四匹の毒蛇にせめられる苦しみだ。

 また、誤った見解や思想のために、結局、その禍を自分の身に受けなければならないことは、ちょうどハチから刺されるのに等しい。

 健康であっても、やがては尽きる我々の命が病や老衰によっていよいよ死期を早めることは、樹の根が野火に焼かれようとするのと同じだ。

 そして待っているものはただ死だけだ。

 しかし、多くの人びとは、果たして自分の上に迫っているこの危機を自覚しているだろうか。

 いや、この恐ろしい自分の相からことさらに眼をそらして、ほんの一瞬の官能的な快楽を貪って、それに耽溺しているのではないか。

 脚下に横たわる危険から眼をそらしてはならない。」

                         譬喩経

 狂った像は、生老病死など無常に譬えられています。