人間は霊的存在

生命現象を火にたとえて説くお経

 ある日、ヴァッチャという出家が、ブッダのところへ来て、死後の問題について論じました。

「ゴータマさん、霊魂と肉体とは同じものですか?」

「かような問題には答えない。」

「それでは、霊魂と肉体とは別なものでしょうか?」

「かような問題にも答えない。」

「すると、あなたは、いかなる根拠にたって、誰々はあそこに生まれ、誰々はここに生まれると解説されるのですか?

 肉体は煙となってしまうから、もし未来に生まれるところを定めようとするには、ぜひとも霊魂によらなくてはならない。よって、肉体と霊魂とは別だということになるでしょう。」

「いや、必ずしもそうはならない。自分は、依るところがあるものはどこそこへ生まれると説き、依るところがないものは、いずれにも生まれないと説くのである。」

「それはどういう意味ですか?」

「たとえば、火は薪という依るところがあるから燃えるので、依るところがなければ燃えないであろう。」

「いや、ゴータマさん、そうばかりもいえません。私は依るところのない燃えている火を見たことがあります。」

「それはどういう火か?」

「大火が炎々と燃えているときに、風が吹いて火が空中に飛ぶことがあります。あの飛火は依るところのない火です。」

「いや、そうではない。飛火は風に依って燃えるのである。」

「それでは、火の場合は別として、人間は死後、何に依って生まれるのでしょうか?」

「それは渇愛(タンハー)に依るのである。渇愛(タンハー)に依って、いずれかへ生まれるのである。」

 ヴァッチャは深く感じてこう申し上げました。

「世間の者はみな渇愛(タンハー)を起し、渇愛(タンハー)を滅することができないために、死後もまたこの迷いの世界に生まれて輪廻する。ひとり世尊(ブッダ)は渇愛(タンハー)を滅して依るところがなく、涅槃を成し遂げました。」

 ヴァッチャは喜び喜び家へ帰りました。

『雑阿含経』巻三十四より

 

 火は薪という依るところがあるために燃えます。薪が尽きれば、もはや依るところがありませんので、消えてしまいます。生命も同じことで、肉体がなくなっても、業という依るところが残っているかぎり、また生まれ変わってくると説くのです。その業とは、渇愛(タンハー)です。ブッダは、渇愛(タンハー)を完全に滅してしまっているので、涅槃に入り、もはや再びこの苦の世界に生を得ることがない、というのが、このお経の説くところです。

 仏教学者の中には、輪廻転生とか、霊魂の存在とかに、なるべくふれないようにするか、あるいは、それを否定する態度が学問的態度であるかのような風潮があります。

 しかし、それでは、どうしても矛盾が生じ、仏教の本質を見誤ります。

人間は霊的存在

 ブッダははっきりと、人間の生命の再生を説きました。そして、その教えの目的は、その再生からの解脱で、輪廻転生の停止-寂滅-です。その再生からの解脱-寂滅を、ブッダは涅槃(ニルヴァーナ)と呼びました。

 これを現世における「さとり」にすり替えてしまったのでは、ブッダの教説とは、まったく違うものになってしまうでしょう。

 人間はあきらかに霊的な存在であって、これを否定したり、無視したり、あるいはあやふやにして、テーマを現世だけにしぼってしまったら、それはもう宗教ではない。たんなる倫理道徳にすぎなくなる。それに、なによりも、それは、人間の生きかた―それは同時に死にかただが―それがまったくまちがってしまうことになる。これほど大きな問題はない。

桐山靖雄著『守護霊を持て』(平河出版社)より 

 しかし、霊魂なぞ一切ないと、したり顔に否定する仏教学者や僧侶が少なからずいます。釈尊は霊魂の存在など一切みとめなかったという主張です。

 そういう主張をするならば、釈尊の否定されたのは、霊魂だけではありません。人間そのものをはじめ、森羅万象、一切を否定されました。「諸法無我」と。「すべてのものは、さまざまな縁に依って、寄せ集まって仮に合わさって存在しているもので、単独で固定的に存在しているものはない。」という意味です。

 仏陀が否定されたのは、常住不変の実在としての霊魂である。

 人間も、霊魂も輪廻も、転生も、五蘊の仮合(けごう)した存在であり、因縁が解ければすべてもとの「空」となる。

 仏陀が目指したのは、悪因悪業すべて解脱して、諸法皆空に帰した、涅槃(ニルヴァーナ)にいたる道である。しかし、その真理をさとらざるものは、迷妄に苦悩しつつ、果てしなく六道を輪廻する。人間も霊もおなじことである。いや、さとれば本来「空」で、人間と霊と区別することさえもおかしなことなのである。

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 人類の堕落を救うのは、霊性の自覚しかない。霊性と霊魂とはもちろんちがう。しかし、霊の存在を知り、霊を尊ぶところから、それははじまる。

 桐山靖雄著『守護霊を持て』(平河出版社)より

 渇愛(タンハー)を断つ道は、解脱した聖霊を尊ぶところからはじめて、霊性顕現していく道だと思います。