〝仮面を被った隷属〟ー惑業苦の輪廻

仏教の旗印

 仏教でしか説かれない教えとして三つ、または四つの旗印があります。

  諸行無常

  諸法無我

  涅槃寂静

 この三つを「三法印」といい、その旗印に、「一切皆苦」をさらに加えて、「四法印」とすることもあります。

 諸行無常諸法無我一切皆苦涅槃寂静

真実の相と虚仮(こけ)の相

 あらゆる物事は同じままにとどまることなく、移り変わっていくもので、今、ここにある現象、物事は、過去からの因縁(原因と条件)、業(善悪の行為、因縁を動かす作用)によって生じたり、変わったり、滅したりしているものです。

 その因縁因果の業の法則こそが真実の相だと説かれるのです。

 ところが、凡夫は、虚仮(こけ)の相(虚偽の仮の相)を永遠不滅、常住不変の実相と見誤り、それに執着し、迷い苦しんでいるというのです。

惑・業・苦

 つまり、虚仮(こけ)の相に惑い、迷いを生じ、その迷いが誤った行動に走らせ、悪い業を生み出し、その悪業が苦しみをもたらすのです。そして、この苦しみがさらに惑をまねき、さらに深い迷いを生じて、どんどん誤った行動に走らせ、もっともっと深い苦しみに陥れてゆく・・・というふうに無限に悪循環してゆきます。これを「惑・業・苦」というのです。業が深くなっていく有様を表しています。

 著者の魚川氏は、この状態を〝仮面の隷属〟だと述べています。

仮面の隷属

・・・日常において無自覚に生きている場合、私たちは心にふと浮かんでくる欲望、例えば「カレーが食べたい」であるとか、「あの異性とデートをしたい」であるとか、そういった欲求・衝動に「思いどおりに」したがうことを、「自由」であると思いなしがちである。しかし、カントによれば、そのような感覚に依存した欲求にそのまましたがって行為することは、単に人間の「傾向性」に引きずられているだけの他律的な状態に過ぎず、「自由」とは呼べないものである。心にふと浮かんできた欲望に、抵抗できずに隷属してしまうことが「恣意(選択意志)の他律」なのだから、それは「自由」とは別物であると、カントは考えていたわけだ。

 仏教においても、「自由」や「傾向性」という言葉は使わないけれども、基本的には同様に考える。

 魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント』より

 凡夫が「自由な行為者」として「思いどおりに」ふるまっていると感じているのは、自由とは呼べないものです。どこからか勝手にやって来て去って行く「ふと浮かんできた」欲求や衝動は、自分でコントロールしたものではありません。その欲求や衝動に、ただ、したがっているだけでは、自分でコントロールできない偏った方向づけをされているもので、決して自由とはいえないものだということです。

 自分でコントロールできない偏った方向付けとは、それは運命と呼ぶものでしょう。運命の軌道は、自らの業・因縁によって決められていると説くのです。

 人は因縁のあやつり人形になっているといえるでしょう。

「運命は偶然よりも必然である。『運命は性格の中にある』という言葉は決して等閑に生まれたものではない。」

作家の芥川龍之介が『侏儒の言葉』で述べた言葉ですが、性格が運命を形成するのか、それとも、運命が性格を形成するのか、見方が分かれるところですが、性格が運命を形成すると考えていいのではないか、と考えます。

 なぜならば、確かにいまの自分の性格を持って生まれたのも一つの運命には違いありませんが、その性格に基いて行動することにより、運命が現実化すると考えられるからです。

 ブッダの教説は、盲目的な悪い癖を改善していくことで、運命を改善しようとするものです。

 しかし、「わかっちゃいるけどやめられない」というのが凡夫です。その凡夫が救われる道として、倫理道徳を超えた、霊性を浄め高める信仰が必要だと考えます。