無常・苦・無我

無常・苦・無我の三相

 ゴータマ・ブッダの教説においては、およそ全ての現象が、無常・苦・無我という三つの性質を有するものとして語られる。これらはまとめて三相とも呼ばれるが、実際のところ、それは縁起という現象のより根源的な性質を、三つの仕方で表現しているものに過ぎない。

・・・例えば「色(しき)は無常である。無常なるものは苦である。苦であるものは無我である」と指摘していく説き方がしばしば見られるが、これも無常・苦・無我の三相が、基本的には同じ事態の異なった表現であるからだ。

魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント』(新潮社)より

 「無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、それを〈こは我所(私のもの)にあらず。こは我にあらず。こは我体(私の本体)にあらず〉と、そのように正しき智慧をもって如実に見るべきである。」

 ここからブッダの教えが出発します。

 世の中のすべてものは、常に変化していて、一定ではありません。わたくしたちの心身も、わたくしたちの生きる世界も、また物も、一つとして変化しないものはありません。すべてが無常です。

 縁によって生じ、縁によって変化して、縁によって滅していきます。

無常なるものは苦である

 「無常なるものは苦である」とは、常にそのままにあると思っているものが自分の期待に沿わずに変化をした時、失望や怒りに襲われて、いかんともしがたい悩みや苦しみを感じるということです。凡夫は無常なるものに常住性を期待してしまいます。たとえば手元にあるお金が、いつまでも自分のものであると思っていたら、それを失った時の喪失感は大きいです。あるいは、自分の若さがずっと続くと考えていたら、自分の老いを目の当たりにした時に大きな失望を味わいます。

 それは苦しいことです。

 人間には欲があります。

 たとえば、いつまでも若くいたい。いつも健康でいたい。お金が入ったならばそれを失いたくない。因縁因果の道理を無視して、常住性を期待する欲を本能的に持ちやすいところがあります。

 極端な例えですが、栗の木を植えておきながら、りんごが実ると期待していたら、それは期待はずれとなって、怒ったり、嘆いたりして苦しみます。

 世の中も自分も因縁因果の道理によって常に変わっていきますから、因縁因果を無視して常住性を期待することは、当然のことながら苦しくなります。

苦なるものは無我である

 ところが、「万物は無常である」と因縁因果の道理を如実に悟って執着しない聖者にとっては、無常なるものは苦ではなくなるというのです。凡夫のみに苦があるのです。

 要するに、苦は因縁因果の無常を理解するかどうかによって生じます。苦という実在はありません。つまり、「無我(永遠不滅の実体が無い)」です。永遠不滅に苦が実在しているわけではありません。それが「苦であるものは無我である」の意味です。因縁因果の無常を如実に知る聖者になれば、苦は消滅します。

常識的習慣性の本能的な欲望

 わたくしたちは自己の心や肉体を自分自身(我)、あるいは自分のもの(我所)と見ていますが、さらに子どもや財産までも自分のものと見てしまいます。これは人間にとって、本能的な欲望であり、長い世代にわたって培われた常識的習慣性です。

 けれども、よくよく考えますと、子どもも財産も、いつかは自分の元を離れてしまいます。少なくとも自分が臨終を迎える時には、いずれも捨て去らなければなりません。ですから、決して「我所」、つまり自分のものではありません。

 結局のところ、自らの心身でさえも常住不変ではなく、自分の思い通りにはなりません。ですから、いつまでも変らない自分の所有のものや、不変実在の自分の本体などは一切存在しない、と説かれるのです。

 以上の無常・無我の教説は、本能的・習慣的になっているわたくしたちの「ものの見方」に根本的な改革を要求しています。

 ただし、ここで間違えずに理解しなければならないのは、「無我説」とは言うものの、どのような意味においても「我」を認めないということではありません。ブッダが「無我説」で否定されている「我」は、あくまでも永遠不滅の「我」のことであって、現在、なにかを考えたり、なんらかの行動を起こしている自我までは否定していません。そもそも、わたくしという自我があるからこそ、ブッダの教説受けていろいろと考えたり、行動を行うことができます。

 けれども、その自我は永遠不滅でも常住不変でもなく、縁によって生じ、縁によって消滅する不安定な存在であるというのが、ブッダが「無我説」で説かれたかったことなのでしょう。