渇愛(タンハー)とは

キーワードの渇愛(タンハー)

 ブッダの教説で、キーワードになるのが「渇愛(タンハー)」という言葉です。

一切の法のために縛せられず、すべてを捨て、渇愛つきて解脱した。

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 ここに四つの真理がある。いわく、苦の真理、苦の集まりの真理、苦の滅びの真理、苦の滅への道の真理が、それである。

 苦の真理とは何であろうか。いわく、生は苦である。老は苦である。病は苦である。死は苦である。愛する者と別れるも苦である。憎むものと会うも苦である。求めても得ざるも苦である。略して説けば、われらが生をなす総てのものは苦である。これが苦の真理である。

 苦の集まりの真理とは何であろうか。充足と欲貪をともない、至るところに満足を求める心、すなわち渇愛こそは、輪廻をもたらし、苦の起こりきたるところである。これに欲の愛と有の愛と無有の愛とがある。これが苦の集まりの真理である。

 苦の滅びの真理とは何であろうか。この渇愛を、あますところなく捨て去り、離れ去り、解脱して執着することがなければ、また、苦の起こりきたることもない。これを苦の滅の真理とする。

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 比丘たちよ、愛とは何であろうか。比丘たちよ、これに六つの愛がある。色(しき:物質)に対する渇愛、声に対する渇愛、香に対する渇愛、味に対する渇愛、触に対する渇愛、法に対する渇愛が、それである。これを愛というのである。

 増谷文雄著『阿含経典による仏教の根本聖典』(大蔵出版)より

 ブッダの教説を理解するためには、渇愛をどう理解するかが、重要になると思います。

『スッタニパータ』の冒頭に繰り返し述べられているように、ゴータマ・ブッダの教えに従って渇愛を滅尽した修行者は、「この世とかの世をともに捨て去る。」この、「この世とかの世をともに捨て去」った境地、即ち解脱・涅槃の風光こそ、時代や地域がいかに異なろうとも変わらない、仏教の普遍的な価値であるはずであり、それがいかなるものであるかを探求することこそが、仏教理解の、まさにアルファでありオメガでもあるはずだ。

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「輪廻はない」と考えて、生の必然的な苦から逃避するために自殺したり、あるいはそこから目を背けつつ、快楽だけを追い求めて一生を浪費したりすることではなくて、現実存在する輪廻を正面から如実知見して、それを渇愛の滅尽によって乗り越えようとすることが、ゴータマ・ブッダおよびそれ以降の仏教徒たちの、基本的な立場であったということだ。

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初転法輪の内容は四諦である。・・・彼は苦の現実を認めた上で、その原因を渇愛であると明確に特定し、その滅尽とそれに至る方法をはっきり示した。

 ここは非常に大切なところで、この点に関する無理解から、現代日本に見られる仏教に対する誤解の多くも起こっているように思われるので何度でも書くが、渇愛は凡夫に対しては「事実」として作用しており、それが彼らにとっては「現実」そのものであるところの、「世界」を形成してしまっている。ゴータマ・ブッダの教説が当時の真剣な求道者たちに対しても説得力をもったのは、彼がそのような「世界=苦」の原因を渇愛であると特定し、それを自分は滅尽したと宣言した上で人々にもその方法を教え、そして弟子たちがそれを自ら実践してみると、本当に「世界」が終わって苦が滅尽したーあるいは少なくとも、そのように確信することができたーからである。

 いずれも、魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント』(新潮社)より

渇愛とは

 キーワードになる、この渇愛(タンハー)とは、一体、何でしょうか?

 岩波仏教辞典をひくと、「渇愛⇒愛」とあります。そこで同辞典を「愛」でひきなおすと、次のように説明されています。

〝人間の最も根源的な欲望。原義は(渇き)ということであり、人が喉が渇いているときには、水を飲まないではいられないような衝動を感じるが、その渇きにたとえられるような根源的な衝動が人間存在の奥底に潜在しているというのである。喉の渇いた人が水を欲しがるような激しい欲望、盲目的な衝動、満足するまでやまない激しい欲望、妄執をいう。広くは煩悩を意味し、狭くは貪欲と同じ意味に用いられる。〟

 ここでいう「愛」は、キリスト教で説く神の愛などとは、全く違います。愛情とか友情、隣人愛といった意味の「愛」ではありません。くれぐれも誤解のないようにしていただきたいと思います。 

渇愛業の本体で人間を生ずる核(コア)

 原語「タンハー」は、「喉の渇き」という意味で、ブッダはこの言葉によって、喉の渇いたものが水を求めてやまないような、はげしい欲望を表現しました。それを漢訳経典の翻訳者たちは、「渇愛」とし、さらに、のち、「愛」としてしまったのです。その時点で、ブッダが表現しようとしたその言葉の原意はまったく失われてしまいました。それは、生命における原初的根元的な力そのものを指す言葉でした。それは、燃えあがる炎のように強烈で、灼けつく喉の渇きが必死に水を求めるような、はげしい「求める力」です。それは周辺にむかってはげしく求めます。その力があってこそはじめてそこに生命は生じ、生命は継続発展していきます。いうならば、生命が自己表現したいと「渇望」する力(エネルギー)です。人間を生じ、人間を動かす根本動因で、人間を生ずる核(コア)になるものです。それを業(カルマ)とよびますが、ブッダは、その業の本体をタンハー(喉の渇き)と表現したのです。

渇愛を滅ぼす道は、「欲望をなくせ」という単なる倫理、道徳の道ではない

 渇愛(タンハー)は理性や意志だけで滅することができるようなものではない、ということを理解しなければなりません。教えだけで克服できるものではありません。

 渇愛を滅ぼした先に、どういう世界になるのか、凡夫には理解できない世界を、ブッダご自身が語っております。

 その世界を頭から「そんなことはあり得ない」と否定しまったら、仏教の本質がわからなくなるのではないでしょうか。根本仏教を研究されている方々の著書を読んでいますと、それを感じます。