十二支縁起の意味

 ブッダの説かれた十二支縁起、十二因縁とは、自分にとって、どういう意義があるのか、考えを深めてまいりたいと思います。

 人間は霊的存在で、渇愛(タンハー)を断たない限り、迷いの世界を輪廻して苦しみ続けると、根本仏教では説かれます。そして、苦しみを断つために、四諦の法門、十二支縁起(十二因縁)という縁起説が説かれました。

 その十二支縁起の法門は、四諦とともに、もっとも重要な法門とされていますが、四諦とちがって、非常に難解な教法として知られています。

 中村元博士は、このように書いておられます。

『昔から難解であると言われていたものが、現代のわれわれにとってなおさら難解であることは言うまでもない。現代の学者の間でも解釈が様々に分かれている』(『原始仏教の思想』下)

 また、ブッダご自身も、甚深難解の法門だと説いています。

『執着を楽しみ、執着を喜ぶ人々にとっては、この縁性、縁起なる理法は見難く理解しがたいものである』

 ブッダご自身が難解であると説かれ、「現代のわれわれにとってなおさら難解である」教えですから、難しいことは当然のことと思いますが、少しでも自分にとって、どういう意義があるのかを考えてまいりたいと思います。

 その十二支縁起は、次のような内容です。

 無明=真実相にたいする根源的無知

 行 =潜在的形成力

 識 =認識作用

 名色=名称と形態

 六処=六つの領域、眼・耳・鼻・舌・身・意

 触 =接触

 受 =感受

 愛 =妄執・渇愛(タンハー)

 取 =執着

 有 =生存

 生 =生まれること

 老死=老い死ぬこと

 以上の十二の因縁を説く教えであり、瞑想法でもあります。

 しかし、瞑想するにしても、知識がなければできませんので、必要な知識を備えることから始めていきます。

 どのように修観していくかといいますと、この十二支縁起の修観は、順観と逆観があるといいます。

 順観は、諸々の条件が集まって苦しみが起こっていることを観察し、逆観は、苦しみを引き起こす諸々の条件を滅ぼし尽くすことを観察していくものです。どちらを中心に据えるかというと、逆観になります。

 苦しみという人生のもっとも切実な問題を解決するのが目的だからです。問題の解明が目的ではありません。

 したがって、この十二支縁起の逆観は、無明から老死へ下って観ずるのではなく、老死からさかのぼって無明に向かう順番で修観していきます。

1.老い死ぬこと

 人間の苦しみは、究極、死の現象です。老いも死の現象にともなう苦しみです。

2.生まれること

 いかにして、老い死ぬことが生ずるのでしょうか?

 それは「生まれること」を縁としているとされています。

3.生存

 では、なにがあるときに「生まれること」が起こるのか?

 「生まれること」はいかなる縁にもとづいて起こるのか?

 生存があるときに生まれることが起こる。生まれることは生存の縁にもとづいて起こる。とされています。ここでいう生存とは、輪廻の状態において生きている迷いの生存ということです。

4.執着

 では、なにがあるときに生存があるのか?

 いかなる縁にもとづいて生存があるのか?

 実に執着があるときに生存がある。執着という縁にもとづいて生存がある。

 この執着は、生きている人間がなにかに執着するというものではなく、生命というものを存在させる根源的な力をさします。

5.妄執(渇愛

 では、なにがあるときに執着があるのか?

 妄執があるときに執着がある。妄執の縁にもとづいて執着が起こる。

 この妄執とは、渇愛で、喉のかわいた者がひたすら水を求めてやまないような激しい欲望をいいます。

6.感受

 さて、なにがあるときに妄執があるのか?

 いかなる縁にもとづいて妄執が起こるのか?

 感受があるときに妄執が起こる。感受という縁にもとづいて妄執が存する。

 感受とは、苦・楽等の印象感覚を受けることです。

7.接触

 では、なにがあるとき感受が起こるのか?

 いかなる縁にもとづいて感受があるのか?

 接触があるときに感受が起こる。接触という縁にもとづいて感受がある。

8.六つの領域(六処)

 では、なにがあるとき接触が起こるのか?

 いかなる縁にもとづいて接触があるのか?

 六つの領域があるときに接触が起こる。六つの領域という縁にもどづいて接触がある。

 六つの領域とは、眼・耳・鼻・舌・身・意のそれぞれの領域のことです。

9.名称と形態(名色)

 では、なにがあるときに、六つの領域が起こるのか?

 いかなる縁にもとづいて六つの領域があるのか?

 名称と形態があるときに六つの領域が起こる。名称と形態という縁にもとづいて六つの領域がある。

 名称とは、人間の心の作用によって表象されるのものです。形態とは、心の作用によって表象される、かたちあるものすべてです。

10.認識作用(識)

 では、なにがあるときに、名称と形態が起こるのか?

 いかなる縁にもとづいて名称と形態があるのか?

 実に認識作用があるときに、名称と形態が起こる。認識作用という縁にもとづいて名称と形態がある。

 認識作用には、眼・耳・鼻・舌・身・意のそれぞれによる六つの認識作用があります。接触と認識の違いが述べられています。

11.潜在的形成力(行)

 なにがあるときに認識作用が起こるのか?

 いかなる縁にもとづいて認識作用があるのか?

 潜在的形成力があるときに認識作用が起こる。潜在的形成力という縁にもとづいて認識作用がある。

12.無明(根源的無知)

 なにがあるときに、潜在的形成力が起こるのか?

 いかなる縁にもとづいて潜在的形成力があるのか?

 無明があるときに、潜在的形成力が起こる。無明という縁にもとづいて潜在的形成力がある。

 無明とは、根源的無知とされています。

 ブッダは、無明が輪廻の起こる根本原因であるとされました。

 苦しみの原因追求は、無明によって究極となります。

 無知は無知として知られたとき、それは消滅します。無明は発見されることによって消滅します。たとえば、夢を見ている人に、夢を見ている間は、それが夢であることに気づかず、苦しんだり、悩んだりしていますが、それが夢であることに気がついたときには、夢から覚めています。

 無明もそれが無明であることに気がつかないから、無明に惑わされるのですが、無明を発見して、その本質を知れば、無明の迷妄性から脱することができる、とされます。

 以上で、十二支縁起の逆観を大雑把に説明を試みました。

 これを瞑想していくには、まだまだ知識が不十分ですが、少しづつ、試みたいと思います。

 お釈迦さまの瞑想は、「縁起観」にこの「十二因縁」を絡めながら進めますから、非常に複雑で難解です。同時に、非常におもしろい。なぜならば、この瞑想を体得すれば、世の中でわからないものがなくなるからです。一種の透視力が備わると考えればよいでしょう。物を観れば物の本質を見抜き、人を観れば人の本質を見抜く力が身に備わるのです。

阿含宗開祖・桐山靖雄大僧正猊下のご法話より