ガンジス河を渡るブッダの旅
・・・尊師はガンジス河におもむいた。そのときガンジス河は水が満ちていて、水が渡し場のところまで及んでいて、平らかであるから鳥でさえも水が飲めるほどであった。或る人々は舟を求めている。或る人々は(大きな)筏[いかだ]を求めている。或る人々は(小さな)桴[いかだ]を結んでいる。いずれもかなたの岸辺に行こうと欲しているのである。そこで、あたかも力士が屈した腕を伸ばし、また伸ばした腕を屈するように、まさにそのように(僅かの)時間のうちに、こちらの岸において没して、修行僧の群れとともに向う岸に立った。
ついで尊師は、或る人々が舟を求め、或る人々は筏[いかだ]を求め、或る人々は桴[いかだ]を結んで、あちらとこちらへ往き来しようとしているのを見た。そこで尊師はこのことを知って、そのときこの感興のことばをひとりつぶやいた。
沼地に触れないで、橋にかけて、(広く深い)海や湖を渡る人々もある。
(木切れや蔓草を)結びつけて筏をつくって渡る人々もある。
聡明な人々は、すでに渡り終わっている。
力士が屈した腕を伸ばし、また伸ばした腕を屈するように
「あたかも力士が屈した腕を伸ばし、また伸ばした腕を屈するように、まさにそのように(僅かの)時間のうちに、こちらの岸において没して、修行僧の群れとともに向う岸に立った。」
「力士が屈した腕を伸ばし、また伸ばした腕を屈するように、まさにそのように(僅かの)時間のうちに」という表現は、中村元博士によると、日本語でいう「まばたきする間に」「一瞬の間に」という意味のようです。極めて短い時間であることを表現するために、仏典の中に好んで用いられる表現だそうです。
こういう記述をどのように理解すればよいでしょうか。私は、次の三つの選択肢を考えたいと思います。
① 一般人が瞬間移動することなど不可能だが、さすがブッダともなれば瞬間移動の超能力が使えるのだなと信じる。
② さすがにブッダでも瞬間移動など物理的にできるはずがない。これは神話的装飾であって実際に起こった出来事ではないと考える。
③ さすがブッダともなれば、業を自由自在に操れる存在なので、一般人と違って協力してくれる人、必要な物、そして自然環境まで味方にしてしまうほど、何もかも順調に事を運ぶ強運の持ち主なのだなと信じる。
私は③の解釈を選択します。
業の「力」を自由自在に動かす能力
この世界には、ものごとすべてを動かしゆくひとつの大きな力がある。・・・
シャカはそれを「カルマ」とよぶ。
その力はただ偶然に動くのではなく、一定の法則にしたがって動く。その動く法則を明らかにしたのが、「縁起の法」である。
問題は、それを「動かす」ものではないか。それがこの業力である。
この業力を自由に動かすことができたとき、因縁解脱の力を持ったということができるのである。それが「成道」ということであり、「成仏した」ということであり、それをはたすのが、「成仏法」なのである。
これあるによりてこれあり
これ生ずればこれ生ず
を、
これあれどもこれなく
これ生ずれどもこれ生せず
これ滅すれどもこれ滅せず
とする力を持ったとき、そのヒトは解脱成仏して、仏陀になったのである。・・・
業の「力」から脱出すること、業の「力」の束縛から離れることが「解脱成仏」なのであって、因縁の道理や縁起の理論をいくらさとっても、それは解脱成仏ではないのである。業の「力」の動く道すじ、道理を理解しただけに過ぎない。・・・業の「力」を動かす能力を持ってはじめて解脱成仏したといえるのである。
桐山靖雄著『愛のために智恵を 智恵のために愛を』(平河出版社)より
ブッダの先駆性は、業の「力」を自由自在に動かす能力にあると考えております。