執着自由自在になる

 般若心経をいつも唱えています。最初は、何が何だかチンプンカンプンのまま、意味もわからず、唱えていました。お経の意味を理解しようと、いろいろ解説した本を読もうとしましたが、専門書から入門書まで、たくさんの般若心経の解説書があり、もっぱらとっつき易い入門書、読み物を読んでいきました。

 しかし、読んでも、わかったようなわからないような生半可な理解です。私が読んだ解説の多くは、空は虚しく、「執着するな! こだわりを捨てよ!」と説くものが多かったと思います。少なくても、私は、そのように解釈していました。あくせくしたって、どうせ空しいのだから、執着するな、という、どことなく虚無感のある教えだと思っていました。

 しかし、般若心経の説く「空」は、そうではなかったんですね。

 昭和22年に発刊された、真言宗の学僧、高神覚昇の『般若心経講義』のまえがきに、こう書かれています。戦争で多くの命が失われ、焼け野原になってしまった日本が復興しようとしていた時代です。

 いったい仏教の根本思想は何であるかということを、・・・一言にしていえば、「くう」の一字に帰するといっていいと思う。・・・その空を『心経』はどう説明しているかというに、「色即是空しきそくぜくう」と、「空即是色くうそくぜしき」の二つの方面から、これを説いているのである。すなわち、「色は即ち是れ空」とは、空のもつ否定の方面を現わし、「空は即ち是れ色」とは、空のもつ肯定の方面をいいあらわしているのである。したがって、「空」のなかには、否定と肯定、無と有との二つのものが、いわゆる弁証法的に、統一、総合されているのであって、空を理解するについて、はっきり知っておかねばならぬことである。・・・(中略)・・・

 おもうに今日、一部のめざめたる人を除き、国民大衆のほとんどすべては、いまだに虚脱と混迷の間をさまようて、あらゆる方面において、ほんとうに再出発をしていない。色即是空と見直して、空即是色と出直していない。所詮、新しい日本の建設にあたって、最もたいせつなことは、「空」観の認識と、その実践だと私は思う。このたび拙著『般若心経講義』を世に贈るゆえんも、まさしくここにあるのである。この書が、新日本文化の建設について、なんらか貢献するところあらば、著者としてはこの上もないよろこびである。

昭和二十二年春

高神覚昇 般若心経講義

 般若心経の経文の中に、「色即是空(しきそくぜくう)空即是色(くうそくぜしき)」という言葉がありますが、「色即是空」は、「形があるからといって、その形にとらわれるな。縁あって仮にその形に生じただけであって、縁によっては、また、形のない空なるものに変ってしまう。」という意味です。よく般若心経の解説を読むと、「執着するな」と説かれておりますが、この部分を指していると思われます。

 ところが「空即是色」は、全く反対で、「形がないといって、無いと思うな。縁によっては、形を生じ、すがたを現わす。」という意味で、一見、「空即是色」と同じことを言っているのではないかと思われますが、全く逆の解釈だったんですね。つまり「執着せよ」と説いていたんです。

 「色即是空(しきそくぜくう)」執着するな。

 「空即是色(くうそくぜしき)」執着せよ。

 執着するな、に気をとられて、執着せよ、に気がつかないと、般若心経の説く「空」は生悟りに陥ってしまうわけです。

 「空」だからこそ、努力すれば努力しただけ進歩し、成長できますし、怠けていれば退歩してしまいます。いま、失敗のどん底にいるからといって、一生、その状態でいなくてはならないというものではありません。自分のつくり出す縁しだいで、どのようにでも変わることができます。「空」だからこそ、どのようにでも変われる。そこに救いがあります。

 色即是空は、執着を捨てよ、という自己否定。

 空即是色は、執着せよ、という自己肯定。

 執着を捨てることが大切ならば、執着することも大切です。執着してこそ、すばらしいものが創造されていきます。

 ただし、ここで最も大切なことは、

 いかなるものから執着を捨て、

 いかなるものに、執着するか、

 それを確実に判断するのが、般若の智慧であるというのです。なにもかも執着するな、とらわれるな、と教えるのは、般若の智慧ではなく、いかに執着するかを教えるのが般若の智慧だったんですね。

 執着を自由自在に正しくあやつれる智慧を身につけ、実践していくことを教えるお経だということを知識として理解できました。

 しかし、知識として理解するのと、体得し、実践するのとでは全く次元の違う話です。さらにもっと深い課題が立ちはだかってきました。