自信と慢心は紙一重

 如意輪観音さまへの願掛けは、順調に九日目を迎えました。

 願掛けは、壇上の仏画に描かれた如意輪観音さまと、自分の心の中でイメージした如意輪観音さま、そして、「仏界」という異次元の高い世界におられる如意輪観音さま、この三つをひとつにして拝むということになっています。

 そこで、どうしても鮮明に如意輪観音さまのお姿をイメージできるようにしておく必要があります。そして、誓願を達成させるためには、その意味内容をかみしめて、日常生活に活かすことが大切になります。

 さて、如意輪観音さまの右の第一の手は、地獄界の衆生を救う思惟の手でした。

 左の第一の手は、山を押しています。観音さまが降臨する光明山〔補陀落山〕をしっかりと掴んでいます。

 如意輪観音さまは、ゆらゆらと揺れ動いている蓮華の上に絶妙なバランスでたたずんでおられますが、私たちが目にするお姿は、ある一瞬を象った仏像、または仏画が、ほとんどです。もし、動画で撮影できたならば、不安定な蓮の華にゆらゆらと揺られながら、お座りになっているお姿でしょう。バランスが少しでも、崩れると、蓮華から落っこちてしまうような、とても不安定な状態です。

 しかし、そうならないように、しっかりと左の第一の手で光明山を掴んでいます。

 一体、光明山をしっかり掴んでいるこの手は、何の救いを示した手なんでしょうか。

 それは、修羅界の衆生を救う手だとされています。修羅界の衆生は、「慢心」を起こして、争いが絶えません。いつも人との競争で、勝つか負けるか、不安にさいなまれ、心が乱れています。また、自分より優れている人に対して、嫉妬心がわき、心中、争いが絶えません。修羅界の根本煩悩は、おごりたかぶって、他を軽蔑するという「慢心」だからです。

 気をつけたいです。

 そこから救われるために、持戒行があります。慢心が増上してまいりますと、自己主張が強くなって、もう勝手気ままにやりたい放題になり、自分の欠陥、短所が暴走して、足をすくわれることになります。せっかくの長所、徳が損なわれ、活かすことができなくなります。

 持戒行は、自分の長所、徳を活かし、伸ばすために、悪い欠点、短所、不徳を出さないようにする実践です。それは、また、慢心を無くす謙虚になる実践で「下座の行」ともいいます。

 にこやかな笑顔、親切な言葉遣いなどをしたり、人を立てたりすることなども、下座の行とされます。人を見下したり、侮ったりしていたら、できないことかもしれません。

 では、謙虚になるということは、自信も誇りもプライドも捨てろ、ということなのでしょうか。

 よく自己肯定感を高めることが重要だといわれますが、自信と慢心はどこが違うのでしょうか。

自信と慢心の差は紙一重である。反省のない自信は、たちまちに慢心とかわってしまう。 — 池波正太郎

 なるほど、そうでしたか。

 持戒行(下座行)の実践は、自分の長所、徳を活かしているか、自分の短所、不徳を出さないようにしているか、反省が伴います。そこから出てくる自信は持ってもいいのではないかと思います。

 しかし、その反省を忘れたら、・・・

 蓮華の台から、たちまち泥沼にドボンと落っこちてしまうでしょう。