〝良寛の自戒三十條〟

 人を説得するには、言葉は必要か、ということを考えたいと思います。

 良寛さんのところへ、実家から手紙が届いた。良寛さんの甥にあたる青年が、近ごろ遊びをおぼえて、親の意見もきかず、ほとほと手にあまるので、良寛さまからきついご意見をしていただきたい、というのである。

 やむを得ず、良寛さんは、三日がかりの旅をして、実家に着いた。

 青年の両親はじめ、親戚の者一同、恐縮しながらも、えらい良寛さまから意見されたら、いかな道楽むすこも改心するにちがいないと、大いによろこび期待した。ところが、二日、三日とたつが、良寛さんは一向に意見をしてくれない。息子も、えらい良寛さんが自分を意見するために来られたらしいというので、もう道楽どころか、いまお叱言(こごと)がくだるか、いまくだるかと、一日中、家の中に小さくなっている。ところが、良寛さまは、お叱言どころか、なに一つ意見らしいものをいわない。親戚一同、また近在から集まってきた人たちを相手に、にこにこお話ばかりしていらっしゃる。

 そのうち、四日目の晩、急に、明日、帰ると言い出された。それではいよいよ今夜、ご意見して下さるのかと息を凝らして一同待ったが、その夜、また何事もなく休まれて、翌朝、お目が覚めると、帰り仕度を始められた。一同、驚き慌てたが、さて、どうしようもない。

 いよいよご出立ということで、良寛さまは上りがまちに腰をかけられ、草鞋のヒモをむすびはじめられた。親戚一同、まわりをかこんでかしこまり、じっと見守っている、と、隅のほうで小さくなっていた甥が、おそるおそる出てきて、膝をつき、良寛さんの草鞋のヒモを結び始めた。まあ、年長者に対する当時のエチケットでしょうね。と、甥が、はっとした顔で、良寛さんの顔を見あげる。草鞋のヒモをむすぶ自分の手に、なまあたたかいものが、一滴、二滴、かかったからである。はっとして良寛さんの顔を見ると、両眼にいっぱいの涙・・・それが、一滴、二滴、自分の手にかかったのだ。とたんに、甥は、わあっとその場に泣き伏してしまった。

 その時以来、甥の道楽はピタリとやんでしまったという。

 良寛さんのこの涙は、どういうところから出た涙であったが、わたくしたちの知る由もないが、人間というものの弱さをトコトン知っている良寛さんには、えらそうに甥に向かって意見などできなかったのであろう。さりとて、意見をしてくれと頼まれ、それができない切なさ、万感胸にせまっての涙であったのであろう。

 この良寛さんに、「自戒三十條」がある。

「言葉の多き」「口のはやき」「あわただしくものをいう」「ものいいのくどき」「さしで口」「おれがこうした、ああした」「人のものいいきらぬうちにものをいう」「わがことを強いていいきかさんとする」「人の話の邪魔をする」「鼻であしらう」「酒に酔いて理(ことわり、理くつ)をいう」「おのが意地をいい通す」「あやまちを飾る」「引用の多き」「好んで唐言葉(外国語)をつかう」「田舎者の江戸言葉」「学者くさき話」「風雅くさき話」「悟りくさき話」「茶人くさき話」「たやすく約束する」「人にものくれぬ先に何々やろう」「くれて後、そのことを人に語る」「返らぬことをくどくど口説く」「推し量りごとを真事になしていう」「己か氏素姓の高きを人に語る」「ものの講釈したがる」「おかしくなきことを笑う」「子どもをたらし、すかしてなぐさむ」「憎きこころもて人を叱る」

 良寛を評して「師、平生、色をなさず(顔に出さない)疾言(早口)するを聞かず。その飲食、起居、ゆるやかにして愚なるがごとし」といい、しかも「師、音吐郎暢(おんとろうよう)、読経の声、心耳(心の底)に徹し、聴く者おのずから信を発す」とある。この三十條の自戒が、天真爛漫にして飄々たるあの魅力的風格をつくりあげたのである。良寛は最初から良寛ではなかったのである。

月刊『アーガマ』(昭和54年11月号)に寄せられた阿含宗開祖・桐山靖雄管長猊下の巻頭言より

 「おのずから信を発す」ほどの「魅力的風格」をつくりあげてきたのは、日頃から陶(よな)げ続けてきた、その修行の賜物ですが、しかし、そこまでしんどいことをするのは、一体、どうしてか、というところに注目したいです。