〝魅力を持つ〟

 人を、自分の思いのままに動いてもらうにはどうしたらいいでしょうか。

 自分に都合よく、人に喜んで協力してもらうことはできるのでしょうか。

 先日、某宗の布教師連盟のかたがたが、青山のメディテーション・センター*1を参観したいということで、多数おいでになられた。

 おわって、いくつかの質問が出されたが、その中で、多分、住職で教育家を兼ねておられるらしいかたが、こういう質問をされた。

「今年*2は国際児童年ということで、児童問題が大きくとり上げられているが、最近、児童問題は非常に深刻化しつつある、桐山先生は、これにたいし、どのように考えておられるか」

 わたくしは、つぎのようにお答えした。

「わたくしはとくに児童に問題をしぼって考えません。それよりも、先ず、親と教師に焦点を向けるべきではないかと考えています。児童そのものに焦点をあてる前に、親のありかた、教師のありかた、というものが問題ではないか、そこから改善してゆくよりほかないと思っております」

「なるほど、では、教師として、あるいは親として、どういうありかたが大切なのか、ひと口にいったら、どういうことでしょうか」

「それは、一言でいえば、親、教師が、児童からみて、なにか一つの魅力を持つ、ということにつきるのではないでしょうか。よく聞きますね、おれはあの先生には何回もなぐられたけども、おれは、あの先生が好きだ、と、そういう言葉をよく聞く。それは、なにか惹きつけられるものを、その先生が持っていることでしょう。いくらよいことをいったって、相手がこちらに心を向け、心をひらいてくれなければなんにもならない。それはなんでもいい、ないか一つ、人間として魅力を持つ。そこから信頼関係も生まれる。

 もちろん、それはたいへんなことです。

 へたをすると、〝おもねり〟〝へつらい〟〝おべっか〟になってしまう。子供は純真ですから、すぐにそんなものは見破ってしまう。子供が見て、魅力のある親になる、魅力のある教師になる。これはたいへんなことで、なかなか容易なことではできない。しかし、これが一番たいせつなことだと思うのです。それは、宗教家もおなじことだと思います。信者に、いかに魅力を感じさせようと一心に努力して持つのではなく、自然に、信者が魅力を感じ、ひきつけられるようにならなければいけない。自然ににじみ出るものでなければいけない。それはむずかしいことです。しかし、それが〝修行〟というものではないかとわたくしは思っております。教師、親も、おなじことではないでしょうか」

 そのようにわたくしはお答えした。とっさの質問なので、いつも心に思っていることでお答えにかえたわけだが、ご理解いただけたようで、幸いであった。親が子に、夫が妻に、妻が夫に、上司が部下に、部下が上司に、企業がお得意先に、それぞれ、いかに本当の魅力を持つか、その努力が忘れられているように思えてならない。それこそが一番たいせつなことなのに—。

月刊『アーガマ』(昭和54年4月号)巻頭言より

 師のご教示に触れて、自分をよなげてまいります。

*1:桐山管長猊下ご指導の瞑想を実践していた施設。

*2:1979年(昭和54年)