観法修行の落とし穴

アン字遍照

 大日経に〝アン字観〟という行法が説かれています。

 真言宗で〝阿字観〟という瞑想を教えていますが、その源流となっているものです。

 

百光遍照王真言

 アン字を百字真言といい、経典に〝百光を発する〟と説かれているので、〝百光遍照王真言〟ともいわれます。別名として、大日常住者などとも呼ばれます。

 要するに、アン字は大日如来の功徳をそなえ、アン字は大日如来そのものと観じていきます。

我、即ち本尊

 大日経百字位成品第二十一には、およそ次のように説かれます。

みずからの心位(心臓)に導師の住処(すみか)があり、

意(こころ)にしたがって生じる八葉の蓮華はきわめて厳麗である。

円満の月輪と等しく、

垢(けがれ)無く浄らかなこと鏡のようである。

そこに常にお住まいの真言の尊主であり、

世をお救いになる尊は、

金色にして光の焔を伴う。

三昧(さんまい:精神集中)に住して

罪障の毒を近づけないことは、

太陽を直視しがたいのと同じである。

諸々の衆生もまた、

常に内部と外部において

(太陽のような金色の)その光によって

あまねく覆われ加持される。

その鏡は意(こころ)なりと知るべし。

真言者の智慧の眼によって

この円満の鏡を観ずれば、

常に自身が寂然として(ひっそりと静かに)

正覚の相(仏のさとりの姿)にある。

・・・・

諸々の本尊は即ち我れ、我れ即ち本尊であり、相互に発起する。

 修行者は、最初にあらゆる仏や菩薩を眼の前に観想し、それらのご尊前に礼拝するとともに、日常、意識的・無意識的になした罪を懺悔します。

 次に、自らの胸に八つの花びらからなる白い蓮華を観じ、その上に鏡のように白く輝く満月輪を瞑想します。

 さらに、その中央に、世尊の大日如来を表すアン字を観じます。

 そのアン字から発した金色の光が全身を覆い、また、この光がもとのアン字に鏡のように照り返すと瞑想します。

 口に真言を唱え、身に大日如来の印を組みます。

 そして、第七マナ識、第八アーラヤ識の一切の妄想を止滅して、深奥にある如来蔵識(仏に成る可能性を帯びた心のはたらき)を呼び起こし、大日如来の三密(身口意の秘密のはたらき)を観じ出します。

 これが成就したとき、わが身もまた大日如来に変わるのだ、というのです。

 ❝本尊は即ち我れ、我れ即ち本尊であり、相互に発起する。❞

 即身成仏の修法です。

 そうやっていると心の中の鏡に、自分が仏身となってありありと見える、というのです。

 シャマタ(止)・ビバシャナ(観)です。

幻影を見るのとどう違うのか

 ただ、ここで問題になるのは、夢想の世界に生きて、現実逃避に陥っていないか、ということです。

 幻影、まぼろしを見るのとどこが違うのでしょうか。

 自分の姿が大日如来と同じ姿になると信じて、何百回、何千回と観想を繰り返していたら、そのうちそういう幻影を見るようになるでしょう。

 その幻影を見て、ああ、おれもとうとう大日如来になったと喜んでいるのでは、単なる自己陶酔に過ぎないでしょう。

 卑俗な例えであるが、落語に「そのつもり」という咄がある。

 貧乏な長屋の住人が、家財道具がなにもないので、壁にタンスや長持を絵かきに書かせておく。夜中に粗忽な泥棒が入り、絵に書いたタンスを本物と思って抽斗(ひきだし)を開けようとし、まごついているのを、住人が目をさましてそれは絵に書いたもので、「タンスがそこにあるつもり」というと、泥棒も、「それではタンスをあけて百両とったつもり」というお笑いである。

 ただ単に阿字を念じて自分だけ仏性を開顕した〝つもり〟でも、それでは単なる観念上の遊びであり、慰めでしかないひとりよがりで、長屋の八さん熊さんとなんらかわりがないことになる。

 修行者は、以上のことを深く心に銘記し、密教の真髄たる観法修行を、単なる閑人の観念遊戯に堕せざるよう、注意してほしいものである。

桐山靖雄著『チャンネルを回せ』(平河出版社)より

 では、観法修行を観念遊戯に堕せざるようにするのは、どうしたらいいのでしょうか。

 シャマタの行に、その解く鍵があると考えます。

 

 

4月8日

 4月8日は、お釈迦さまの誕生を祝う日です。

 そして、阿含宗立宗の日でもあります。

 また、あまりよく知られていないようですが、サンパウロ市では、阿含宗開祖・桐山靖雄の日でもあります。

 法恩感謝の祈りを捧げます。


2007 年 7 月 19 日法律第 14,485 号を改正し、サンパウロ市の行事予定表に阿含宗の開祖である桐山靖雄師の日を含めるほか、その他の規定を設ける。

2018 年 1 月 10 日法律第 16,795 号

(法案第 172/17 号)

(ジョージ・ハト市議会議員 – MDB)

2007 年 7 月 19 日法律第 14,485 号を改正し、サンパウロ市の行事予定表に阿含宗の開祖である桐山靖雄師の日を含めるほか、その他の規定を設ける。

サンパウロ市会議所のミルトン・レイテ会頭は、サンパウロ市会議所がサンパウロ基本法第42条第7条に従い、以下の法律を公布することを通知する。

Art. 1. アートにアイテムが追加されます。2007 年 7 月 19 日付けの法律第 14,485 号の第 7 条には、次のような文言が含まれています。

「-4月8日:阿含宗の開祖、桐山靖雄師の日。」 (NR)

第 2 条 この法律は公布の日に発効し、これに反する規定は無効となります。

サンパウロ市議会、2018年1月10日。

ミルトン・レイト、社長

2018 年 1 月 10 日にサンパウロ市議会議会事務局で発表。

ライムンド・バティスタ、政務総長代理

唯識観の瞑想

 唯識観の瑜伽行に、奢摩他(しゃまた)・毘鉢舎那(びばしゃな)があります。

 奢摩他(しゃまた)とは「止心(ししん)」と訳されています。心を止めるとあります。これは、外界の対象に向かう感覚器官を制御して、心のはたらきを静める行です。

 毘鉢舎那(びばしゃな)とは「観(かん)」と訳されています。静まった心に対象の映像をありありと映し出す観法の行です。

 この二つの行を同時に行うのを「雙運(そううん)」と呼ばれています。つまり瞑想の技法を表した言葉です。

 奢摩他(しゃまた)・毘鉢舎那(びばしゃな)の行というのは、ひと口にいうと、対象を完全に消滅させると同時に、全くべつな対象をそこに現出させる行といえるでしょう。そういう行をしょっちゅうくりかえしていたら、感覚からなにからすべてがちがってくると思われます。

 今まで感じていたものが感じられなくなり、また、普通の感覚では感じられないものが感じられるようになってきます。

 今まで見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえるようになってきます。

 この世の中で目にし耳にし、触れるもの、ことごとく違ってくると思います。

 それが唯識観になるのでしょう。

 現象はすべて心識の表象であるという唯識教学は、理論ではなく、瑜伽師の実感だと思われます。

 心が全く止滅して心と肉体が分離するところまでいった人が、定から覚めた瞬間に感じたことを、そのまま言葉になって出てきたものと思われます。

 そして、心が全く止滅して、心と肉体が分離し、死と同じような状態になるほどのシャマタの行に入れる人が、ビバシャナの行にに入ったらどうなるでしょうか。

 完全なるシャマタの行により、外界を全く遮断してしまいます。

 全くの止滅、全くの無心、完全なる虚心です。

 そこには全くなにもありません。

 いかなるものも存在しません。

 そこへ、すさまじい強い思念を集中して、一つの対象なり映像なりを映し出すのが、完全なるビバシャナの行です。

 それはそのまま実在と化してしまうのではないか、と思います。

 その瑜伽行の頂点に、仏を思念し、自身を仏と化せしむ技法があります。

 存在するものすべて実在ではなく、アーラヤ識の表象であるとすれば、アーラヤ識が仏陀の表象を持ったら、そこに仏陀が出現することになるでしょう。

 唯識というのは、つまるところ、そこにあると考えます。

 

瞑想と空の理を体得する道

「アーラヤ識」という意識できない深層の心の作用を考え出した理由

 唯識学派が、自分では気づかない心の働きをアーラヤ識として考え出したのは、どういう理由からでしょうか?

 「瑜伽師地論」に次の八つの理由が説かれているといいます。

(1)個人存在の感覚・生命・体温などをつねに維持する心の働きがなければならない。眼、耳、鼻、舌、身、意などから受ける心の働きは、現在、起こっている現象にうながされて働くが、その働きだけでは、単発的な認識に終わる。眠ったり、気絶したり、次々と注意をひいたりしていると、ひとつひとつの認識が断絶することになる。しかし、アーラヤ識は、過去の因に対する果報としてあらわれているから、断絶がない。

(2)母胎において受胎が行われ、個体の生命が発生するためには、胎児に五官が具わり、それを維持する生命の中心主体が成立していなければならない。それがアーラヤ識である。

(3)感覚的認識である「前五識」と、それを統覚する心である「第六識」の意識とがともにはたらいて明確な認識が成立するためには、それらの諸々の心の認識を維持する心の働きが同時に存在しなければならない。それがアーラヤ識である。

(4)アーラヤ識がないと、種子(過去の残痕)が存在できなくなる。種子は万物を生ずる因である。すべての存在にはそれぞれに対応する種子が想定される。それによって諸法の差別相が混乱することなく成立する。それには、不断に種子を維持しているアーラヤ識の存在が認められねばならない。

(5)アーラヤ識が存在し、それが五官の認識と意識、自我意識とともにはたらかないと、環境世界、個人存在の身体、自我、対象を表象(イメージ)することができなくなる。

(6)アーラヤ識がないと、身体の感覚をつねに持つことができなくなる。個人の精神状態は、時によりさまざまに変わるが、つねに身体の感覚があるのは、それを維持するアーラヤ識があるからである。

(7)アーラヤ識がないとすると、無心定に入ることができなくなる。禅定の修行に没頭するとあらゆる心作用の止滅した状態になる。それが無心定である。無心定は、仏教の聖者が修する滅尽定と、凡夫・異教徒が修する無想定とに分けられるが、もし、アーラヤ識がなければ、無心定に入ったとき、心が止滅するのであるから、心と肉体とが分離した死と同じような状態になるはずである。しかし、決して死と同じではないのは、その奥にアーラヤ識が不断に持続して身体を維持しているからである。

(8)アーラヤ識がないとすると、死に臨んで精神作用がまったく停止した後に、しばらくの間、身体に体温が残存し、やがて冷却していく事実を説明できなくなる。すなわち、個体の中心にアーラヤ識があって、それが維持していた身体を捨て離れるから、かかる現象が起こる。

 

 以上から、アーラヤ識は、理論上の要請、論理の前提として立てられた面がある一方、体験から帰納して立てられたことがわかります。

アーラヤ識を把握した瑜伽師の法

 これまでの「空」を説く龍樹の仏教は、眼・鼻・耳・舌・身・意の六識しか説いていませんでした。

 しかし、その六識の働きは、間断、途切れが認められるから、生理的心理的現象をつねに維持する原理とはみなしがたいと唯識学派は考えました。

 六識の奥に、ひとすじの心の流れとして絶え間なく持続する働きがあり、しかも、多くの心の作用が同時に働くことを見出しました。

 眠っているときや、気絶したときは、五官の認識や意識が無くなります。

 しかし、そのときでも、記憶を保持したり、体温や呼吸など生命を維持したりする心の働きがあります。

 それをはっきりと把握した人たちがいました。「瑜伽師」といわれる人たちです。そこから理論的に裏打ちして、アーラヤ識といったものが考え出されたのではないかと思われます。

 龍樹が出て、空の理論をじつに理路整然と説かれましたが、第七マナ識、第八アーラヤ識は説かれませんでした。龍樹が出てから、二百年ほど経って、六識から八識を立てるようになり、心の認識の観察が、より深く精密になってきたことがわかります。

 龍樹は、また、その空性をどうやって体得するかという方法論は明示されませんでした。龍樹は、おそらく瞑想によって体得されたと思われますが、それは明示せず、理論・教理だけを残して世を去りました。空の理を理解することは、そう難しいことではありませんが、それを身をもって体得することは、至難の業です。

 その不可能に苦心惨憺して挑戦してきた無数の求道者たちの中から、体得した人が現れ、唯識論を説いてきたのではないか、と思われます。

 唯識は、理論ではなく、龍樹の説く「空」に到達するための方法論として観るべきものではないかと考えてます。

自分を超越していく

 西洋の小話にこういうものがあるそうです。

 

 男の一生には三つの時代がある。

 サンタクロースを信じている時代、

 サンタクロースを信じなくなった時代、

 そして、サンタクロースになる時代だ。

 

 妄信したり、その反対に、無神論に走ったりして、数々の過ちを経験すると、もう一度、人間を超越していくことに目を向けることになるのでしょう。

 AIなど科学技術がますます発達していく中、それを制御する人間の心も発展させていくものが求められていると思います。