唯識観の瞑想

 唯識観の瑜伽行に、奢摩他(しゃまた)・毘鉢舎那(びばしゃな)があります。

 奢摩他(しゃまた)とは「止心(ししん)」と訳されています。心を止めるとあります。これは、外界の対象に向かう感覚器官を制御して、心のはたらきを静める行です。

 毘鉢舎那(びばしゃな)とは「観(かん)」と訳されています。静まった心に対象の映像をありありと映し出す観法の行です。

 この二つの行を同時に行うのを「雙運(そううん)」と呼ばれています。つまり瞑想の技法を表した言葉です。

 奢摩他(しゃまた)・毘鉢舎那(びばしゃな)の行というのは、ひと口にいうと、対象を完全に消滅させると同時に、全くべつな対象をそこに現出させる行といえるでしょう。そういう行をしょっちゅうくりかえしていたら、感覚からなにからすべてがちがってくると思われます。

 今まで感じていたものが感じられなくなり、また、普通の感覚では感じられないものが感じられるようになってきます。

 今まで見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえるようになってきます。

 この世の中で目にし耳にし、触れるもの、ことごとく違ってくると思います。

 それが唯識観になるのでしょう。

 現象はすべて心識の表象であるという唯識教学は、理論ではなく、瑜伽師の実感だと思われます。

 心が全く止滅して心と肉体が分離するところまでいった人が、定から覚めた瞬間に感じたことを、そのまま言葉になって出てきたものと思われます。

 そして、心が全く止滅して、心と肉体が分離し、死と同じような状態になるほどのシャマタの行に入れる人が、ビバシャナの行にに入ったらどうなるでしょうか。

 完全なるシャマタの行により、外界を全く遮断してしまいます。

 全くの止滅、全くの無心、完全なる虚心です。

 そこには全くなにもありません。

 いかなるものも存在しません。

 そこへ、すさまじい強い思念を集中して、一つの対象なり映像なりを映し出すのが、完全なるビバシャナの行です。

 それはそのまま実在と化してしまうのではないか、と思います。

 その瑜伽行の頂点に、仏を思念し、自身を仏と化せしむ技法があります。

 存在するものすべて実在ではなく、アーラヤ識の表象であるとすれば、アーラヤ識が仏陀の表象を持ったら、そこに仏陀が出現することになるでしょう。

 唯識というのは、つまるところ、そこにあると考えます。