瞑想と空の理を体得する道

「アーラヤ識」という意識できない深層の心の作用を考え出した理由

 唯識学派が、自分では気づかない心の働きをアーラヤ識として考え出したのは、どういう理由からでしょうか?

 「瑜伽師地論」に次の八つの理由が説かれているといいます。

(1)個人存在の感覚・生命・体温などをつねに維持する心の働きがなければならない。眼、耳、鼻、舌、身、意などから受ける心の働きは、現在、起こっている現象にうながされて働くが、その働きだけでは、単発的な認識に終わる。眠ったり、気絶したり、次々と注意をひいたりしていると、ひとつひとつの認識が断絶することになる。しかし、アーラヤ識は、過去の因に対する果報としてあらわれているから、断絶がない。

(2)母胎において受胎が行われ、個体の生命が発生するためには、胎児に五官が具わり、それを維持する生命の中心主体が成立していなければならない。それがアーラヤ識である。

(3)感覚的認識である「前五識」と、それを統覚する心である「第六識」の意識とがともにはたらいて明確な認識が成立するためには、それらの諸々の心の認識を維持する心の働きが同時に存在しなければならない。それがアーラヤ識である。

(4)アーラヤ識がないと、種子(過去の残痕)が存在できなくなる。種子は万物を生ずる因である。すべての存在にはそれぞれに対応する種子が想定される。それによって諸法の差別相が混乱することなく成立する。それには、不断に種子を維持しているアーラヤ識の存在が認められねばならない。

(5)アーラヤ識が存在し、それが五官の認識と意識、自我意識とともにはたらかないと、環境世界、個人存在の身体、自我、対象を表象(イメージ)することができなくなる。

(6)アーラヤ識がないと、身体の感覚をつねに持つことができなくなる。個人の精神状態は、時によりさまざまに変わるが、つねに身体の感覚があるのは、それを維持するアーラヤ識があるからである。

(7)アーラヤ識がないとすると、無心定に入ることができなくなる。禅定の修行に没頭するとあらゆる心作用の止滅した状態になる。それが無心定である。無心定は、仏教の聖者が修する滅尽定と、凡夫・異教徒が修する無想定とに分けられるが、もし、アーラヤ識がなければ、無心定に入ったとき、心が止滅するのであるから、心と肉体とが分離した死と同じような状態になるはずである。しかし、決して死と同じではないのは、その奥にアーラヤ識が不断に持続して身体を維持しているからである。

(8)アーラヤ識がないとすると、死に臨んで精神作用がまったく停止した後に、しばらくの間、身体に体温が残存し、やがて冷却していく事実を説明できなくなる。すなわち、個体の中心にアーラヤ識があって、それが維持していた身体を捨て離れるから、かかる現象が起こる。

 

 以上から、アーラヤ識は、理論上の要請、論理の前提として立てられた面がある一方、体験から帰納して立てられたことがわかります。

アーラヤ識を把握した瑜伽師の法

 これまでの「空」を説く龍樹の仏教は、眼・鼻・耳・舌・身・意の六識しか説いていませんでした。

 しかし、その六識の働きは、間断、途切れが認められるから、生理的心理的現象をつねに維持する原理とはみなしがたいと唯識学派は考えました。

 六識の奥に、ひとすじの心の流れとして絶え間なく持続する働きがあり、しかも、多くの心の作用が同時に働くことを見出しました。

 眠っているときや、気絶したときは、五官の認識や意識が無くなります。

 しかし、そのときでも、記憶を保持したり、体温や呼吸など生命を維持したりする心の働きがあります。

 それをはっきりと把握した人たちがいました。「瑜伽師」といわれる人たちです。そこから理論的に裏打ちして、アーラヤ識といったものが考え出されたのではないかと思われます。

 龍樹が出て、空の理論をじつに理路整然と説かれましたが、第七マナ識、第八アーラヤ識は説かれませんでした。龍樹が出てから、二百年ほど経って、六識から八識を立てるようになり、心の認識の観察が、より深く精密になってきたことがわかります。

 龍樹は、また、その空性をどうやって体得するかという方法論は明示されませんでした。龍樹は、おそらく瞑想によって体得されたと思われますが、それは明示せず、理論・教理だけを残して世を去りました。空の理を理解することは、そう難しいことではありませんが、それを身をもって体得することは、至難の業です。

 その不可能に苦心惨憺して挑戦してきた無数の求道者たちの中から、体得した人が現れ、唯識論を説いてきたのではないか、と思われます。

 唯識は、理論ではなく、龍樹の説く「空」に到達するための方法論として観るべきものではないかと考えてます。