自我意識と個体の維持

表層と深層の絡み合い

 唯識は、人間の心を、表層の心と深層の心が重なり合っていると考えます。

唯識の考える心の構造

日常生活で意識できる表層の心

 「前五識」とは、五官による感覚作用です。

 「第六識」とは、意識のことで、推理、判断、想像、洞察などの知性や、情緒とか情操などの感情、そして、意志意欲など、知・情・意にわたって作用する心です。物事を区別し、識別する心です。通常、日常で、心と呼ぶ場合、この「前五識」「第六識」を指すことが多いと思いますが、唯識では、これらを表層の心だと言います。日常生活にあらわれている表面の心です。自分の心を省みて、ある程度、明確に自覚できる心です。

自分で実態をつかみ難い深層の心

 ところが、心は自分でも実態をつかむことが難しい暗やみの領域にもあるといいます。第七マナ識と第八アーラヤ識で、潜在意識、深層意識に属するものです。

「第七識」のマナ識は、利己的に思いはかる潜在的な自我意識で、自己中心的に物事を分別し、考えてしまう心です。

「第八識」のアーラヤ識は、こっそりと隠しながら、過去を溜めこんでいる心です。お金でしたら、へそくりになりますが、溜めこんでいるのは、過去の経験です。

 アーラヤは漢訳で「蔵」と訳されていますので、アーラヤ識は蔵識とも呼ばれます。

アーラヤ識(蔵識)の三つの作用

 唯識は、アーラヤ識に、三つの作用があるとみています。

1.能蔵

 持種の義で、アーラヤ識が諸法を種字の形において内蔵し、そこに諸法を結び付けていること。

 つまり、私たちのあらゆる行為を残痕として溜めこんでいるものであるということ。

2.所蔵

 受薫の義で、アーラヤ識は諸法から薫習されるものとして、諸法に蔵され結びつけられること。

 つまり、その溜めこんだものによって、その人柄やその人の環境世界が変わり、それによって、現在や未来が変わるということ。

3.執蔵

 アーラヤ識が、我執のはたらきをするマナ識によって、我として執着されること。

 アーラヤ識は、マナ識の自己保存、自己防衛の自我意識によって、個体維持の中心として、生存の根本動因として執着されること。

 アーラヤ識の心の流れを「自我」と認識することによって、自我意識を持つことができます。人間は、六種の認識器官による認識が、つねに、自分のなにものであるか、「自分が自分である」を把握することが、個体の維持上もっとも大切なことです。自我意識なくして個体の健全な保持はできません。

 しかし、つねに自分を把握していなければならぬという機能の結果、なにごとも自己を中心にして思考するという宿命を持ちます。

 人間はより良く生きようと願いつつ、ともすると、自分だけうまく生きようと考えやすいと説く唯識法相の教学は、人間の心を深く掘り下げて、私たちにどのような志向を示そうとするのでしょうか?

心の流れと認識

唯識」について考えたいと思います。

人間の存在とは何でしょうか?

それは、❝心の流れ❞です。

私たちの心は常に生じた瞬間に滅します。

滅した瞬間、また、次の瞬間の心と交替します。

これを繰り返して生滅します。

この、繰り返し生滅する心が一つの流れを形成します。

人間の存在とは❝心の流れ❞といえます。

これを、心相続(しんそうぞく)といわれます。

私たちは、この心の流れで世界を認識している、と考えます。

万法(すべてのもの)は心識(こころ)の表象として存在しています。

心識(こころ)の他に独立して存在するものは一切、認めない、と考えます。

すべてのものは心識の所産です。

ただ表象あるのみです。

表象されるものは、外界に存在しているものではありません。

表象されるものは、心識(こころ)それ自体の内奥にある、と説きます。

赤い花がここにあります。

しかし、心の中に赤い花だと認識する念を起させなければ、赤い花として存在しません。

赤い花だと認識するのは、心の中に「赤い花だ」という念を起させるものがあるからです。

したがって、赤い花は外界にあるのではなく、こちらの心の中にある、と説くのです。

こう考える唯識は、一体、私たちの苦悩について、どう解決しようと考えているのでしょうか。

探求してまいりたいと思います。

解決への道

”ひきよせて むすべば柴の 庵にて

 解くれば元の 野原なりけり”

 

 ここに庵があります。この庵は、山野の雑木が集められ、つなぎ合わされたものです。しかし、解体すれば、元の野原になるでしょう。「庵」は「有る」のでもなく、「無い」わけでもなく、「空」だということを示す歌です。

 「庵」を「現在の苦悩」に当てはめますと、その苦悩も空だと悟って、そこに救いを見出すことができます。現在、苦しんでいることも、さまざまな原因や条件がつなぎあわさって現れているにすぎません。

 ひきよせてむすんできた様々な原因や条件をほどいていけば、今、苦しんでいることから自ずと解決への道が開かれるでしょう。

 「空」を悟るというのは、ただ物事の因縁を知るだけでなく、そこから解脱するために何をなすべきかを知り、実行していくことだと思います。

ガンジス河を渡るブッダ

ガンジス河を渡るブッダの旅

・・・尊師はガンジス河におもむいた。そのときガンジス河は水が満ちていて、水が渡し場のところまで及んでいて、平らかであるから鳥でさえも水が飲めるほどであった。或る人々は舟を求めている。或る人々は(大きな)筏[いかだ]を求めている。或る人々は(小さな)桴[いかだ]を結んでいる。いずれもかなたの岸辺に行こうと欲しているのである。そこで、あたかも力士が屈した腕を伸ばし、また伸ばした腕を屈するように、まさにそのように(僅かの)時間のうちに、こちらの岸において没して、修行僧の群れとともに向う岸に立った。

 ついで尊師は、或る人々が舟を求め、或る人々は筏[いかだ]を求め、或る人々は桴[いかだ]を結んで、あちらとこちらへ往き来しようとしているのを見た。そこで尊師はこのことを知って、そのときこの感興のことばをひとりつぶやいた。

 沼地に触れないで、橋にかけて、(広く深い)海や湖を渡る人々もある。

 (木切れや蔓草を)結びつけて筏をつくって渡る人々もある。

 聡明な人々は、すでに渡り終わっている。

中村元訳『ブッダ最後の旅ー大パリニッパーナ経』(岩波書店)より

力士が屈した腕を伸ばし、また伸ばした腕を屈するように

「あたかも力士が屈した腕を伸ばし、また伸ばした腕を屈するように、まさにそのように(僅かの)時間のうちに、こちらの岸において没して、修行僧の群れとともに向う岸に立った。」

「力士が屈した腕を伸ばし、また伸ばした腕を屈するように、まさにそのように(僅かの)時間のうちに」という表現は、中村元博士によると、日本語でいう「まばたきする間に」「一瞬の間に」という意味のようです。極めて短い時間であることを表現するために、仏典の中に好んで用いられる表現だそうです。

 こういう記述をどのように理解すればよいでしょうか。私は、次の三つの選択肢を考えたいと思います。

① 一般人が瞬間移動することなど不可能だが、さすがブッダともなれば瞬間移動の超能力が使えるのだなと信じる。

② さすがにブッダでも瞬間移動など物理的にできるはずがない。これは神話的装飾であって実際に起こった出来事ではないと考える。

③ さすがブッダともなれば、業を自由自在に操れる存在なので、一般人と違って協力してくれる人、必要な物、そして自然環境まで味方にしてしまうほど、何もかも順調に事を運ぶ強運の持ち主なのだなと信じる。

 私は③の解釈を選択します。

業の「力」を自由自在に動かす能力

 この世界には、ものごとすべてを動かしゆくひとつの大きな力がある。・・・

 シャカはそれを「カルマ」とよぶ。

 その力はただ偶然に動くのではなく、一定の法則にしたがって動く。その動く法則を明らかにしたのが、「縁起の法」である。

 問題は、それを「動かす」ものではないか。それがこの業力である。

 この業力を自由に動かすことができたとき、因縁解脱の力を持ったということができるのである。それが「成道」ということであり、「成仏した」ということであり、それをはたすのが、「成仏法」なのである。

 これあるによりてこれあり

 これ生ずればこれ生ず

を、

 これあれどもこれなく

 これ生ずれどもこれ生せず

 これ滅すれどもこれ滅せず

とする力を持ったとき、そのヒトは解脱成仏して、仏陀になったのである。・・・

 業の「力」から脱出すること、業の「力」の束縛から離れることが「解脱成仏」なのであって、因縁の道理や縁起の理論をいくらさとっても、それは解脱成仏ではないのである。業の「力」の動く道すじ、道理を理解しただけに過ぎない。・・・業の「力」を動かす能力を持ってはじめて解脱成仏したといえるのである。

桐山靖雄著『愛のために智恵を 智恵のために愛を』(平河出版社)より

 ブッダの先駆性は、業の「力」を自由自在に動かす能力にあると考えております。

五根法:能力を発揮させる道

ブッダと神々の対話

第一章・第六節 覚醒している

傍らに立って、かの神は、尊師のもとで、この詩句をとなえた。

「〔他の〕ものどもがめざめているときに、幾つが眠っているのであろうか?

 他のものどもが眠っているときに、幾つがめざめているのであろうか?

 どれだけによって塵にまみれるのであろうか?

 どれだけによって清められるのであろうか?」

〔尊師いわく、ー〕

「〔五根法の五つが〕めざめているときに、〔五蓋の〕五つが眠っている。

 〔五根法の〕五つが眠っているときに、〔五蓋の〕五つがめざめている。

 〔五蓋の〕五つによってひとは塵にまみれる。

 〔五根法の〕五つによってひとは清められる。」

中村元訳『ブッダ・神々との対話ーサユッタ・ニカーヤⅠ』(岩波文庫)より

 五根法と五蓋という全く正反対に働く心の動きを対比しています。

五根法(ごこんほう)

 五根法とは、ブッダの成仏法・七科三十七道品(七つのシステム・三十七のカリキュラム)の中のひとつのシステムです。

 次の五つのカリキュラムから成り立つ成仏法です。

1.信根(しんこん)

・・・信の力を徹底的に自分の心に植えつけていく修行。信解円通していくこと。

2.精進根(しょうじんこん)

・・・精進努力の「能力」を持つ修行。努力すること自体が一つの能力で、その能力を高める修行法。

3.念根(ねんこん)

・・・念の力を何倍にも強める修行から入り、そこから念力を強めて四念処法を修め、空を体得していく修行法。

4.定根(じょうこん)

・・・四禅法(しぜんほう)という瞑想の修行。

5.慧根(えこん)

・・・四諦の法門を完全に体得して、真実の智慧を獲得する修行法。

概略、以上の五つです。

 根とは諸々の善いことを生じさせる根本という意味で、自由にはたらく能力をいいます。能力でも、自由に発揮させる場合と全く揮えない場合がありますが、諸々の善いことを生じさせて、自由に能力をはたらかせていくようにするものです。

 この五つの高い能力をニルヴァーナに向かって発揮していく修行です。

五蓋(ごがい)

 五蓋とは、文字通り、徳を積もうとする心に蓋をする五つの心です。善を生じさせない五つの煩悩のことをいいます。

1.貪欲蓋(とんよくがい)

・・・欲望。むさぼり。

2.瞋恚蓋(しんにがい)

・・・嫌悪。それが昂まると怒りになる。

3.惛沈睡眠蓋(こんじんすいめんがい)

・・・気の滅入ること。心暗く、身も重く、ものうい状態。ふさぎこむこと。眠り込んだような無知蒙昧。

4.掉挙悪作蓋(じょうこおさがい)

・・・心をざわざわさせる掉と心をなやまさせる悪作。心がとりとめなく浮ついた状態。または後悔。そう鬱の状態。

5.疑蓋(ぎがい)

・・・疑い。ブッダの真理の教えを疑いためらうこと。

以上の五つです。

 

 注意深く読むと、「欲望」「むさぼり」を失くすのではなく、「欲望」「むさぼり」を変化させていくことだということに気づきます。

 人は勉強し、努力して、向上しようとするのは、「欲望」「むさぼり」があるからこそ、進歩向上できるのであって、それを失くしてしまったら、モチベーションを失くし、抜け殻のような人になってしまうでしょう。

 また、嫌悪、そして、そこから生ずる怒りの心もあるからこそ、現状に不満を抱き、問題解決のために改善向上しようという行動力が出てきます。

 問題は、何に目覚めているかどうかの違いです。

 五蓋に目覚めている者は、塵垢にまみれ、五根法に目覚めている人は、塵垢を清められるとあります。

 塵垢にまみれるか、塵垢を清めるかが大きな分かれ道になってきます。

 五根法には、いくら能力、才能を磨いても、「塵垢」にまみれていると、十分に発揮する場が得られないという教えが示されているのです。いや、「塵垢」にまみれていると、磨こうという「努力の能力」さえも発揮できなくなってしまう、というのです。

 能力、才能を発揮するためには、あるいは、自分の才能を磨こうとする「努力の能力」を発揮するためには、「塵垢」を清めていくことが強調されています。