声と心

文藝春秋』2024年1月号の特集記事「私が大切にしている10のこと」を読んで、興味を引いたところがあります。

 山根基世アナウンサーの言葉です。

ナレーションは全身でする

 アナウンサーは体が資本です。ナレーション、朗読は全身運動です。

 「映像の世紀」の第九集「ベトナムの衝撃」の収録をしていた時のこと。その月は体調が悪くてどうしても声が出ず、スタジオで泣き出したい気持ちになっていました。

 このときの映像に、1960年代、ガンジーの非暴力主義に学んだマーチン・ルーサー・キング二世の指導下に行われた大規模な黒人デモの記録がありました。白人警官が無抵抗のデモ隊に犬をけしかけ、警棒を振り上げ、消防ポンプで水攻めをする。番組は、こうした衝撃的な映像が世界中で目撃されることで、アメリ公民権法成立へ、国際的世論が高まっていった事実を伝えるものでした。

 世界を、歴史を変えた映像に深い感動を覚えた私の体に、「なんとしても伝えたい」と祈るような思いが突如、湧き上がってきたのです。その時の不思議な感覚をいまでも覚えています。気づけば、体調の悪さも忘れ、中腰のような姿勢で力強くマイクに向かっていた。「腰で読む」という、いまの私の基礎を体得した瞬間でした。

 表現は全身でするものだと思うのです。

体の芯から出てくる声を大切にする

 声って、怖いものです。

 声を聞けばわかる、というのが私の持論。嘘をついていたり、何かをごまかそうとしていたり、相手を小馬鹿にした姿勢は、必ず声に出るものです。人の声には心がくっついてくる。人が本当に人と向き合った時には、声は体の芯から出てきます。

 その人の存在が温かければ、どんな言葉でも、相手の心を温めたり、励ましたり、希望を持たせたりできる一方で、冷たい心から発せられれば、いくら表面的には美しい言葉でも、相手を傷つけたり、苦しめたりしてしまう。

文藝春秋』2024年1月号「私が大切にしている10のこと」(山根基世アナウンサー)

 〝人の声には心がくっついてくる〟

 とても印象に残る言葉ですが、実は、私もそう思っていました。私はアナウンサーではありませんが、人前で読経する機会は多いと思います。ウッカリうわの空でお唱えするお経やご真言は、空疎な借り物の祈りの響きになっています。また、たとえ声がよくても、「どうだ、おれの声はいいだろう、すげえだろう」という心が声にくっついて、鼻もちならない響きになってしまいます。気をつけたいです。一緒にお唱えしている人たちにはわかってしまうんですね。いや、神仏がすべてお見通しされています。

 〝人が本当に人と向き合った時には、声は体の芯から出てきます〟

 私は、この言葉を、

 〝人が本当に神仏と向き合った時には、声は体の芯から出てきます〟

と言い換えたいのです。

 心そのものをコントロールしていくのは難しいですが、呼吸と身体からコントロールするシャマタ(止)の技法を使えば比較的に簡単に行えるのではないか、と思います。

 私は、今日もジョイフル瞑想をします。