二つの瞑想の取り組み方

 「瞑想」を広辞苑でその意味を調べますと、

1.目を閉じて静かに考えること

2.現前の境界を忘れて想像を巡らすこと

とあります。瞑想には二つの面があることを端的に説明しています。つまり、瞑想を「考えること」と「想い巡らすこと」の二つに分けています。

 実は、瞑想には脳でする瞑想と、心でする瞑想があるそうです。考える瞑想が脳でする瞑想で、想う瞑想が心でする瞑想です。

 脳と心は別なのか、という疑問が生まれますが、少なくても器官と機能の違いは考えられます。ただ、心は脳の産物なのか、それとも脳と心は別で、心が脳を動かしているのか、意見がわかれているようです。代表的なのは、「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」という唯脳論と、「脳はコンピューターであり、心はプログラマー」であるという心身二元論です。

 瞑想のアプローチから見ると、心身二元論に立脚しているように思います。

 心身二元論で、心を考えると、脳から生み出された心と、脳を動かしている心があるということになります。脳を動かしている心が本来の生き方を求めている本当の自分の心ではないか、と考えるのです。なぜならば、脳と心が別ならば、脳が壊れても、つまり、死んでも心は働き、そのために動いている心だからこそ、死後のあるべき姿を望む生き方を求めているのではないか、と考えるのです。

 脳を動かす心にそって脳を働かせるのが理想なのかもしれませんが、現実は、目の前の生活に対応することに脳を使うので、難しいことなのかもしれません。

 考える力を与えるのが脳でする瞑想、美を感じるのが心でする瞑想ではないかと、今の私の脳では考えています。

「蓮の花がきれいだなあ」と思うのは、心で瞑想している状態でしょうか。「考える瞑想」は頭を使うので、どうも私には苦手な傾向がありますが、こうしてブログに書くことも、「考える瞑想」につながっているのかもしれません。