小楽と大楽

 自分が存在することによって自分の周囲の人が少しでもよくなるように、少しでも幸福になるように、と思う心が、慈心とされています。

 夫は、夫として自分の存在が少しでも妻の幸福になるように、妻は妻として自分の存在が夫の幸福に役立つように、親は子の幸福を願って、子は親の幸福を願って、夫、妻、親、子とそれぞれの立場から、自分の存在が他の家族にとって、少しでもよい結果を生むことを願って暮らしていくことが、家庭における慈心です。

 経営者は、経営者として自分が雇っている労働者や、顧客・取引先の役に立つようにと考えて行動していきます。また、労働者は、働く者の立場から経営者の繁栄を考えて働きます。これが職場における慈心です。

 このように慈心とは、周囲に楽を与える心です。

 ところが、このような世間的な慈心では、「小楽」を与えているに過ぎないので、不十分、不完全だというのです。

 いや、不完全でも、助け合い、励まし合い、与え合う心が、一体、どこが悪いのでしょうか。

「小楽」だからだというのです。

 政治資金パーティー裏金疑惑問題で世間に騒がれるのは、派閥組織内の「小楽」に留まっていることに対する批判だととらえることができるかもしれません。

 密教を修める菩薩は、周囲に「小楽」を与えるのはもちろんのこと、「大楽」を与えることを心掛けなければならない、と説かれるのです。

 組織人として、「大楽」とは何か、「小楽」と「大楽」とでは、どう違うのか、追及していなければならないと、思っています。

 

誓願なきは菩薩の魔事なり」(道元禅師)